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Opinion/Report

003:『はだしのゲンが見たヒロシマ』完成披露記者会見レポート 中沢啓治さん(『はだしのゲン』作者)+石田優子さん(『はだしのゲンが見たヒロシマ』監督)
構成:福嶋真砂代
Date: July 22, 2011
中沢啓治さんと石田優子さん | REALTOKYO
中沢啓治さんと石田優子さん

『はだしのゲン』の作者、中沢啓治さんは6歳のときに広島で原爆に遭い、たまたま寄りかかった国民学校の門塀によって奇跡的に生き残った。麦のように、踏まれても踏まれてもたくましく生きる「ゲン」は、中沢少年自身であった。これまで漫画を描くことで戦争や原爆の恐ろしさを伝えてきた中沢さんに、今度は映画の中で実際に語ってもらい、特に戦争を知らない若者たちへ平和の大切さを伝えられたらとドキュメンタリーを撮った若い石田優子監督。完成披露試写会後の記者会見で、中沢さんとともに作品への思いを語った。また、東日本大震災とそれに伴う原発事故で深刻な状況下に置かれる人々へ、中沢さんから温かいエールが送られ、さらに『はだしのゲン』第2部の構想も明かされた。

漫画を描くのではなく、被写体として映画出演して、いちばん印象に残ったことは?

 

中沢:(映画の中の)僕のしゃべりを聞いていると恥ずかしいなと思ったりしますけど、僕の口から、身体から、何かを感じとってもらえたら。僕は漫画で表現する世界にいるけど、身体で表現できたことはよかったなと思ってます。

 

石田監督が印象に残っていることは?

 

石田:中沢さんと初めてお会いしてお話を聴いたとき、私たちのような若い世代には想像もできないような話だったので衝撃を受けました。何よりも中沢さんという方が小さいときからの漫画家になる夢を、辛い経験を経てもあきらめず、子供の心をずっと忘れないで貫き通したこと、強く明るく生きた中沢さんの生き方というものにたいへん感銘を受け、また衝撃でした。そして、自分自身が小さなことに悩んでいたなということにも気づきました。

 

映画を作ることになった経緯は?

 

石田:最初は、私が監督をして映画化することを目的に撮っていたものではありませんでした。それまで、NPO"ANT-Hiroshima"の渡辺朋子さんとシグロ(『はだしのゲンが見たヒロシマ』の製作・配給)とで、被爆者や戦争体験をされた方々の記録映像を撮影し続けてきたのですが、そのような経験をした方がいま高齢化しています。とにかくお話を記録するということをまず優先して、4、5年前からカメラマンの大津幸四郎さんと私とで広島に通ってお話を聴く作業を続けてきました。その中で中沢さんにお話をうかがうことになりましたが、中沢さんのお話はやはり特別でした。ぜひこれを多くの方々に伝えたいとスタッフで話し合い、映画化したいと改めて中沢さんにお願いしました。2009年9月から約1年間かけて4回ほど中沢さんを取材してお話を聴かせていただきました。その後、今年に入って広島平和記念資料館に収蔵されている原画を撮影し、編集して、4月下旬に広島で試写会を行いました。約2年近くかけて作品を完成させたという経緯になっています。

 

石田監督と『はだしのゲン』との出逢いは?

 

石田:実は私が小学校に上がる前に、アニメ映画の『はだしのゲン』を母に連れられて観たのですが、原爆投下のシーンなどの印象があまりにも強すぎて、夜中にそのことを思い出して眠れなくなったりしていました。漫画も児童館や図書館など身近にありましたが、「簡単には見てはいけない漫画だ」という意識があり、恐る恐る見ては閉じを繰り返す子供時代を過ごしました。また私は東京出身ですし、このように中沢さんと、映画監督として関わることは実は後ろめたいというか、「こんな自分でいいのだろうか」というような思いがありましたが、映画で中沢さんがお話をしているように、私のような若者がいっぱいいることを知りました。子供時代に中沢さんを通して原爆というものを初めて知り、中沢さんの話を引き継いでいくきっかけを与えてくれた『はだしのゲン』に出逢えたことを、本当に感謝しています。

 

はだしのゲンが見たヒロシマ | REALTOKYO
(c) 2011 シグロ、トモコーポレーション

漫画のなかに「隆太」という子供が出てきますが、モデルはいますか。

 

中沢:モデルはいます。僕と同じくらいの年齢の陸軍大佐の息子で、戦前戦中は裕福な暮らしをしてたんです。ところが原爆で一家全滅し、親戚関係も全部死んでその子だけが助かりました。その後お互いに成長していくわけですが、しばらく経って「あいつはいま島根にいる」とか「岡山にいる」という噂が流れ、いったい何の仕事をしてるのかと聞くと刑務所にいると。あんなに裕福な暮らしをしていた人が原爆一発のために人生を狂わされ、悪の世界に入っていくしかなかったという……、そういうモデルがいるんです。よく一緒に遊んだ子です。

 

石田監督が映画に引用した漫画のパートを選んだ理由は?

 

中沢:だいたい1〜4巻までの漫画から主に引用させていただきました。このドキュメンタリーに関しては中沢さんの話を中心に観ていただくということで、もしかしたら原作を知ってる方にとってはもの足りないところもあったかもしれません。ただ1〜4巻というのは『はだしのゲン』の中でも凝縮された世界があると、特に私は魅力を感じていたので使わせていただくことにしました。

 

30年以上も愛読されている原作ですが、その間に届いた子供たちからの感想とは?

 

中沢:小中学生からの感想の中で圧倒的に多いのは「戦争と原爆がこんなにすごいとは思いませんでした。もっともっと真実を教えて下さい」というものです。一方で「私にとって『はだしのゲン』は聖書(バイブル)です。落ち込んだときに読み返すと、勇気が湧いて生きようという気持ちになります」と言ってくれた北海道の若い女性もいました。そんなふたつの流れがあります。

 

はだしのゲンが見たヒロシマ | REALTOKYO
(c) 2011 シグロ、トモコーポレーション

原発はまだまだ人間が制御できる段階じゃない

 

福島の原発事故への、被爆者としての中沢さんの思いは?

 

中沢:僕は前から原発には反対でした。まだまだ人間が制御できる段階ではないと思うんです。案の定それが起きたと。この地震列島にものすごい数の原発を作るのは危険だと思ってました。事故後のチェルノブイリにも僕は行きました。4号炉にも入りましたが15分で出てきて、(測定器が)振り切れるほどの放射能が充満していました。(放射能が無くなるまで)100年くらいかかるんじゃないでしょうか、いや無くならないというか(わからないが)……。日本にもし事故が起きたらどうなるんだろうと思って帰ってきたんだけど、東北の大地震からよもやこんなことが起こるとは。まだまだ人間が制御できる段階じゃない。原発は放棄して、自然燃料に切り替えるべきじゃないかと思っています。

 

原爆が落ちたとき、僕は「黒い雨」を全身に浴びたわけです。ものすごく気持ちが悪くなって水も何も飲みたくない。じーっとうずくまってた。それが放射能の影響だとは当時は誰もわからない、そもそも放射能というものがわからんわけです。だから僕は放射能汚染されてるんです。だけど今回の福島原発の事故で風評がはびこって、福島から来た子供をいじめぬくというから、本当に腹が立った。先生はしっかり勉強してほしい。広島で放射能を浴びたって、僕はこうして72歳まで生きてるわけだから。放射能は伝染しないと子供たちに教えなくてはいけない。親も風評に騙されて動かないように。やはり放射能、放射能という恐怖感を持ってしまうが、大丈夫なんだと。こんなことを言うと原発の肩を持つような捉え方をされたりするかもしれないけど、そうじゃなくて、風評に踊らされないようにきちんと冷静に見てほしいと思ってます。

 

日々放射能汚染のニュースが報道されていますが、冷静にと?

 

中沢:僕たちの時代には、測定器とかいうものは何もなかったんです。広島の焼け跡に、郊外から用事をしにきた人が入って、帰っていくと翌日死んでる。そういう事実がいっぱいあって、なんで広島の焼け跡を歩いたら死ぬんだと不思議でしかたがなかった。当時は放射能というものがわからないから伝染病じゃないかと。だから広島の焼け跡には行くなという噂が広がったけど、結局は放射能だったんです。広島の焼け跡に黒い雨が集中的に降ったところと降らないところがあって、歩いたところにたまたま集中的に充満していたから死んだんでしょう。放射能は伝染病じゃない。僕もたっぷり浴びましたが、こうして生きてますから。

 

原発事故について、いま政府に言いたいことは?

 

中沢:ありのままを伝えなくちゃいけないんじゃないか。マスコミも面白い方面ばかりでなく事実をきちんと伝えていくべきじゃないか。政府は、いままで見てると隠し事をしてるようなところがあるような気がするんです。政府もマスコミも、ありのままを国民に伝える役目を果たしてほしいですね。

 

はだしのゲンが見たヒロシマ | REALTOKYO
(c) 2011 シグロ、トモコーポレーション

元気いっぱい、力いっぱい生きてほしい!

 

大変な状況のなか「ゲン」も明るく生きてきました。いま大震災や原発事故で辛い境遇にある方々にかける言葉は?

 

中沢:人間は落ち込んでウツになるのはダメです。映画の中でも僕は言ってますが、カラ元気でもいいから、歌でも歌って元気に「負けるか!」という気持ちを振り起こすような行動をとってほしいです。僕は落ち込んでどうしようもないとき、「夜が冷たい〜」(「旅笠道中」作詞:藤田まさと、作曲:大村能章、歌:東海林太郎 )なんて歌いながらカラ元気で生きたんです。元気いっぱい、力いっぱい生きてほしいです。

 

『はだしのゲン』第2部の構想は?

 

中沢:第2部「東京編」として、上京したゲンの、東京での原爆者差別を描こうと思っていました。最終的には、横浜から貨物船に乗ってフランスに行く予定だったんです。そこで第2部が終る。東京大空襲の孤児たちとゲンが手をつないで戦争の無い世界を目指そうという構想でいたんです。 いまは目の病気(編集部注:網膜症と白内障)で漫画が描けない状況だけど、これからは映像で実現できたらと思います。

 

この作品をどんな人に観てもらいたいですか。

 

はだしのゲンが見たヒロシマ | REALTOKYO
(c) 2011 シグロ、トモコーポレーション

中沢:戦争と核兵器はどんなことがあっても防ぐよう、命をかけて子々孫々に汚点を残さないように闘わなければならないと僕は思ってます。この映画を観て少しでも何か感じてもらえたら、被写体になった僕自身もうれしいし、『はだしのゲン』を描いた意義もありますから、多くの人に広がってほしい。特に若い人たちに観てもらえたらと願っています。

 

石田:先日、広島の小学校の生徒に観てもらった際に、私と同年代の教員の方が「小さいときには衝撃が強すぎて原作を読むことができなかった。この映画では原爆の強い描写があるわけではないけれど、中沢さんが被爆の体験を直接語るというのがよかった。原作を改めて全巻読んでみようと思った」と言ってくれたのが、すごくうれしかったです。ぜひ幅広い層の方々に観ていただきたいし、映画を機会に改めて漫画を読んでもらえたらと思って作りました。英語版も制作していますので、海外でも観てもらえたらと思います。

 

(※2011年6月30日、複数の記者によるQ&A形式で行われました。)

 

プロフィール

なかざわ・けいじ/漫画家。1939年、広島生まれ。63年に『スパーク1』でデビュー。86年に『黒い雨にうたれて』を発表し、戦争・原爆をテーマにした作品を描き始める。72年に自伝的作品『おれは見た』、73年に『はだしのゲン』が週刊少年ジャンプにて連載開始、87年に第1部が完結。『はだしのゲン』は、映画、テレビドラマ、絵本、紙芝居、ミュージカルなどになったほか、13ヶ国語以上の言語に翻訳されている。09年、視力の低下を理由に『はだしのゲン』第2部の執筆を断念。所持するすべての原画9505点が広島平和記念資料館に収蔵される。

 

いしだ・ゆうこ/1978年、東京生まれ。映画美学校にて佐藤真に学ぶ。その後映画製作・配給会社シグロ入社。『映画 日本国憲法』(監督:ジャン・ユンカーマン)、『ぐるりのこと。』(監督:橋口亮輔)、『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』(監督:東陽一)などにスタッフとして関わる。『エドワード・サイードOUT OF PLACE』(監督:佐藤真)には助監督として参加。戦争・被爆体験の証言記録ビデオ『沼田鈴子さんに聞く』『居森清子さん 居森公照さんに聞く』『鶴田マリさんに聞く』では編集を担当。本作が初監督作品となる。

インフォメーション

はだしのゲンが見たヒロシマ

8月6日〜26日、オーディトリウム渋谷にて上映

公式サイト:http://cine.co.jp/gen/

寄稿家プロフィール

ふくしま・まさよ/航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』コラムを執筆(1998-2008)。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所のウェブサイトに、IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』を連載中。