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原美術館 2018.6.16 – 9.2
EXHIBITION

小瀬村真美:幻画〜像(イメージ)の表皮
原美術館 2018.6.16 – 9.2

Written by 澤 隆志|2018.6.25

Banquet, giclee print, 2018 ©Mami Kosemura

城が宮殿や邸館に変わりつつあった16世紀に「ギャラリー」ができたのだそうだ。目的は屋内での運動。健康のためのウォーキングエリア。やがてそれは絵画の展示空間になってゆく。* お屋敷で、絵画のために徘徊というのは実に正しい鑑賞行為といえる訳で、小瀬村真美が原邦造の私邸であった原美術館を美術館初個展の会場として熱望したのも合点がいく。そして凝視と想起と歩行の仕掛けを展開していた。

展覧会の名前は「小瀬村真美:幻画〜像(イメージ)の表皮」とある。ピサネッロやフランシスコ・デ・スルバランなどを引用し、静物画のように配置したセットをつくり、インターバル撮影とトリッキーな編集行為によって絵画と写真と動画を行き来する。写実。実写。だけど幻。コメントに「絵画のアプロプリエーション作品という捉え方から、もう一歩、わたしの作品世界に踏み込むきっかけになってほしい」とある。そのフラジャイルな踏み込みこそ、アニメーションの作用である。

筆者はトーク等でしばしばアニメーションを滑り台に例える。一段一段積み上げたコマが再生されると、滑らかな運動に変換される錯覚として。その階段の段階を、近似した連続描画を差し替えればドローイング・アニメーション。一定間隔でシャッターを切ればタイムラプス。実写を秒間数百コマで撮影してひろげればスーパースローとなる。これら広義のアニメーションの手法がひっそりと散りばめられている。

「氏の肖像」ビデオ・インスタレーション 2004年 © Mami Kosemura

「氏の肖像」「episode Ⅲ」などは、異なる時間の層を比較的発見しやすい。凝視しているとそのズレに惹き込まれていく。写実が幻灯になっていく。アニメーションという写真の束は、ゆっくりめくれていく時間の表皮である。さりげない合成でイメージの表面が曖昧になっていく。

また、小説の章立てのようにお屋敷の各部屋に名前が付き、作家のテクストが書かれている。筆者は原美術館の受付脇のギャラリーⅠを密かに楽しみにしていて、束芋、やなぎみわ、オラファー・エリアソン、ピピロッティ・リストなど大切な思い出だ。今回はオブジェとも資料ともつかない欠片たちを配置し、犯罪現場のような禍々しい雰囲気を演出した。欠片の記憶を抱きつつⅡからⅤの部屋を巡ると、映画の回想シーンのように作品鑑賞中にイメージがインサートされる。Ⅴにいたって、写真のように瞬間凍結されたドレープが幻/画として機能する。

「Drape IV」 ジクレープリント 2014 年 © Mami Kosemura

十分な時間をかけて見て、歩いて、思い出して、また歩いていただきたい展示だ。

 

*『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット(左右社)

INFORMATION

小瀬村真美:幻画〜像(イメージ)の表皮

2018年6月16日ー9月2日
原美術館

WRITER PROFILE

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澤 隆志 Takashi Sawa

イメージフォーラムのフェスティバルディレクター(2001-10)を経て現在はフリーランスのキュレーター。
あいちトリエンナーレ(2013)、東京都庭園美術館(2015,16) 、青森県立美術館(2017,18)などでキュレーション。また、「Track Top Tokyo」 (2016) 、「都市防災ブートキャンプ」(2017)、「めぐりあいJAXA」(2016-18)など都内の隠れたセクシー物件でイベントを行っています。

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