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PERFORMANCE

イデビアン・クルー『排気口』
世田谷パブリックシアター 2018.8.9-12

Written by 武藤大祐|2018.8.22

撮影:野坂茉莉絵

この傑作を10年後にまた見られるとは、よもや思わなかった。

 

舞台は森繁久彌の『喜劇駅前旅館』(1958年)あるいは何かのサスペンス劇場に出て来そうな和風旅館の設えだが、キャラクター設定や、宴会・乱闘・色恋などのドラマは下地に過ぎず、アクションはあくまで演劇とダンスの狭間に展開する。

まるで中世絵巻物の「吹抜屋台」のように、旅館の室内空間をスケルトン化した舞台装置(伊藤雅子)が効果絶大だ。柱、鴨居、敷居が線遠近法的なグリッドとして機能し、手前の座敷、それを囲む廊下、さらにその奥といったレイヤーとともに、水平方向にもフレームを形作る。日本建築から抽出されたこのグリッドが、恐ろしく込み入ったダンスの展開を構造的に補強し、また観客の目の解像度を確実に高める。

 

撮影:野坂 茉莉絵

 

井手振付の主成分は、極小の断片として散りばめられた無数の「引用」である。それは映画の中のさほど目立たない一場面だったり、日舞やバレエやジャズのフレーズ、リズムパターン、あるいはマンガやアニメの定型的なアクションだったりするが、ポストモダニズムと明確に違うのは、具体的な何かの参照というより、観客の漠然とした記憶に訴える点だ。「何となく知っている」ものに出会うと、人は無意識に記憶を投影してイメージを膨らませる。そんなイメージの断片の細部を井手は捉え、別の細部とつなぐ。こうして「何となく知っている」ものの巨大なデータベースから、濃密で予測不能な展開が紡ぎ出される。だから井手の振付は隅々までキャッチーでありつつ奥が深い。

一例を挙げよう。酒の肴を整える板前の背後で仲居たちが8カウントのステップを繰り返す。前に出た時に胸を反らす決めポーズと、下がる時の腰の震えがコミカルで印象に残るが、何となく前者は「ツンとそっぽを向く」所作、後者は「武者震い」に見える。やがて彼女らが去ると、板前の一人がなぜか畳にゴロンと転がり痙攣して暴れ出す。「活マグロ」か。すると先ほどの仲居たちの動きが微かに思い出される。そういえばあれは「水揚げされた魚」のようでもあった。それが今、板前に転移している…。もちろん見ている時にはほぼ意識できない。むしろ、意識しないままつい受け取ってしまう細部の働きぶりこそが鮮やかなのである。

しかも『排気口』では、こうしたシークエンスが、ビッシリと音の詰まったEDMと見事に呼応しながら複線的に進行する。例えばユニゾンのラインダンスと子供じみた騒動などといった異質な出来事のタイムラインが同時に走り、枝分かれし、変形してゆく。気付かない内に新たな何かが始まっており、それに気を取られているとさっき見ていたものはもう違う何かに変貌している。見る者の意識をすり抜ける井手の振付がいかに周到に設計されているかは、繰り返し見るほどにわかり、味わいも増す。

今回二度見たが、もっと見たい。コンテンポラリーダンスのこうした再演が定着することを期待している。

INFORMATION

せたがやこどもプロジェクト2018
イデビアン・クルー『排気口』

2018.8月9日 - 12日
世田谷パブリックシアター
振付・演出:井手茂太

WRITER PROFILE

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武藤大祐 Daisuke Muto

群馬県立女子大学文学部准教授(舞踊学・美学)、ダンス批評家、振付家。20世紀のアジアを軸とするダンスのグローバル・ヒストリー、および振付の理論を研究している。共著『Choreography and Corporeality』(2016年)、『バレエとダンスの歴史』(2012年)、論文「アーティストが民俗芸能を習うということ」(『群馬県立女子大学紀要』38号、2017年)、「舞踊の生態系に分け入る」(同39号、2018年)など。三陸国際芸術祭プログラム・ディレクター(海外芸能)。

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