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SCREENING

清原惟監督『わたしたちの家』
2018.1.18 –

Written by ヴィヴィアン佐藤|2018.5.16

昨年より、東京藝術大学大学院修士の、ある修了制作が世間を賑わせている。黒沢清監督が絶賛。「PFFアワード2017」グランプリ受賞を皮切りに、配給会社が付き年始には渋谷で一般公開。「ベルリン国際映画祭」、「香港国際映画祭」、「New Directors/New Films(NY MoMA & Lincoln Center)」でも大盛況。そして、「プチョン(富川)国際ファンタスティック映画祭」と招待上映は続く。

 

 

既製の映画のジャンルに収まらず、強い批評的な姿勢が目を引く。いままで日本の若い映画監督がなし得なかった快挙を達成し続けている26歳の清原唯監督の怪作『わたしたちの家』については、すでに多くのことが語り尽くされている。しかし、その周辺に起きている現象そのものがこの作品の批評されることの相性や意味として立ち上がり、総体として作品の存在意義をさらに大きくしている。

 

 

父親のいない少女の母子家庭と、記憶を失った女性と彼女を連れて帰るもう一人の女性との共同生活、全く別々の物語がひとつの家屋を舞台に交錯していくというもの。ふたつの時間や空間は全く交わらないのではなく、お互いに少しずつ影響を及ぼしていく(ように見える)。

 

 

この作品の秀逸な点は、多くの比喩や見立てが作品内に恣意的にちりばめられているようであり、そうでもないようにも見える両義性であり曖昧性である。それが現実の社会においても実際に有り得ることとして、わたしたちの周囲の世界もそのように見えてきてしまう錯覚(現実)を誘発するのである。例えば、ある「映画館」という固有の場では数多くの映画が上映されるという出来事が起き、鑑賞という体験がなされる。そこでの、体験された幾つかの記憶同士はお互いに影響を及ぼし合うのではないか。もしくは、この物語は出会うことのないふたつの家族の物語と先に述べたが、もうひとつの交わらない家族=鑑賞者という集団の存在を我々に気付かせる。わたしたち鑑賞者(複数)は、同じ出来事を体験したひとつの家族とも言え、映画の登場人物たちにとっては決して目に見えない幽霊的な存在でもある。このことはすべての映画において言えることとして気付かされる。映像とは過去の出来事をそこで反復体験していることに他ならない。

この日本生まれのアンファンテリブルの出現を見守るしかない。

INFORMATION

『わたしたちの家』

監督:清原唯
出演:河西和香 安野由記子 大沢まりを
2017年 / 80分 / 日本
2018年1月13日公開
©東京藝術大学大学院映像研究科
http://www.faderbyheadz.com/ourhouse.html

WRITER PROFILE

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ヴィヴィアン佐藤 vivienne sato

美術家、文筆家、非建築家、ドラァグクイーン、プロモーター。ジャンルを横断していき独自の見解でアート、建築、映画、都市を分析。VANTANバンタンデザイン研究所で教鞭をもつ。青森県アートと地域の町興しアドバイザー。尾道観光大使。サンミュージック提携タレント。

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