HOME > REVIEWS > AT HOME
> 『二・二六事件 脱出』 小林恒夫監督
AT HOME

『二・二六事件 脱出』
小林恒夫監督

Written by 遠山純生|2020.5.9

 

1936年2月26日午前5時、陸軍青年将校およそ300名が首相官邸を襲撃。その場にいた警察官四名のほか、首相の義弟である老大佐を首相本人と誤認して射殺する。その後、首相が生きており、公邸内の女中部屋の押し入れのなかに隠れていることを知った特高憲兵・小宮曹長が腹心の部下二名、および首相秘書官との協力態勢の下、首相救出作戦に着手する。

昭和史を語る際には欠かせない、有名な軍事クーデタを描いた映画である。登場人物の名は実在の人物と少しずらしてあるものの、モデルとなった人物が誰かはすぐに察することができる。とはいえこれは、特定の歴史観や政治観を打ち出した作品ではない。どちらかといえば、実録風ジャンル映画(スリラー映画)だ。同時に、一種の集団劇であり、いわゆる主人公はいない。この点でジャンル映画としては、一風変わっている。決起した皇道派青年将校ら、首相秘書官たち、憲兵たちのいずれにも焦点が合わないまま、物語は進行するのである。

牽引役となる明確な主人公が不在である場合、娯楽映画のストーリーはともすればまっすぐに進んでゆくことができなくなるうえ、いたずらに長く鈍重なものとなったり、悪くすれば力ないものとなったりしがちだ。しかし不思議なことに、事件の発生前夜から解決までをおよそ90分に圧縮した──むしろ、複雑に込み入った事件を思い切って単純化した、と言うべきであろうが──この映画は、そうなることを免れている。おそらくここでは、少なからぬ数の登場人物の、ほとんど行動だけを巧みに捌きながら注視する姿勢が徹底されているからである。そもそも将校らによって実際におこなわれた襲撃および占拠は、さまざまな要人がその拠点としていた官邸・私邸だけでなく、新聞社や警視庁にまでおよんでいたが、映画では首相公邸一ヶ所に主要舞台を絞り込んでいる。要するに、事件にいたる経緯や心理描写や思想的背景といった要素を一切省き、ほぼ「現在進行形」で次々に生じるできごと、つまり官邸襲撃・占拠から首相脱出にいたる過程のみをじつにすっきりと無駄なく、単刀直入に、キビキビと語ってゆくわけだ。

小坂慶助(映画版で高倉健が演じる小宮のモデル)が著した原作『特高 二・二六事件秘史』も、頗る興味深く面白い。小坂が一連のできごとを回顧するかたちで綴られるこの書は、著者本人が見聞しえなかった首相官邸襲撃の一部始終を、いわば「回想のなかの回想」のようにして叙述の途中にはめこんでいる。それに当然、語り手である小坂が「主人公」であることは、はっきりしている。こうした点ではまるで原作の方が、良い意味で通俗的な劇映画のようなのである。いや、そもそもこの実話自体が、まるで「映画」のように劇的なのだが。映画版においても小宮曹長は卓抜な頭脳と行動力で窮地を切り抜ける一種のヒーローだが、その英雄性がことさらに強調されることはない。実際には首相救出案は小坂が思いついたものだったのだが、映画の方では速水秘書官(三國連太郎)のひらめきによるものとされ、「手柄」も適度に分散されているのだ。

 

映画版が独自の力を発揮する箇所の一つに、クライマックスの脱出劇──首相(実は杉尾大佐)の弔問客に紛れて本物の首相を官邸から脱出させる──がある。この部分では原作以上に「時間との闘い」が強調されるからである。

サスペンスは二段構えだ。そしてこの二段構えの大枠のなかに、時間をめぐるスリルが何重にも仕込まれている。首相生存の事実が世に知れ渡る前に勅使差遣を撤回させなくてはならず、ごく限られた時間のなかで計画を遂行しなければならないのが前提だ。そのため弔問客が官邸に入り、総理が脱出し、杉尾大佐の遺骸を運び出すのにわずか30分しかかけることができない。描かれるのは、まず首相が無事官邸を抜け出すことができるか否かをめぐる緊迫、そして首相脱出後に居残った小宮ら憲兵や二人の女中が生還できるか否かをめぐる緊迫、である(脱出から30分も経過すれば、総理の生存が公表されるであろうから、官邸に留まっていては憲兵たちの身に危険がおよぶ)。分刻みの計画遂行であり、実行前には憲兵たちも秘書官たちも腕時計の時刻を合わせるだけでなく、度々時刻を尋ね合い、みずからの腕時計で時間を確認し、しきりに「時間がない」と口にする。綿密な強奪計画を遂行する犯罪者集団さながらにことにあたるのである。史実に基づいているがゆえに結果はわかっていながらも、このクライマックスには誰もがドキドキさせられるだろう。

迫りくるタイムリミットを強調するべく活用されるのが、時計だ。小宮と秘書官二人が救出計画を練るとき、妙案が浮かばず頭を悩ませる福井秘書官がコツコツとテーブルを叩く音に、時計が秒針を刻む音が重なり、みな焦っていることがほのめかされる。あるいは、こんな挿話も描かれる。首相(=杉尾大佐)の遺体の警護をしている屍歩哨がウォルサムの腕時計をしているのだが、小宮の部下・青山軍曹は自分の腕時計が「止まった」ことを口実に、ウォルサムを話のタネにして雑談を交わし、小宮が女中部屋に忍び入る手助けをする。このとき歩哨は、高級腕時計を古参兵に二度ほど「召し上げられた」ことがあるのだが、自分の父親が時計店を営んでいて、「補充に不自由はしない」のだと話す。その後、長らく押し入れに隠れていたおかげで足がもつれる首相の両脇を抱えた小宮と福井が屍歩哨の背後を通り抜ける際に、青山が再びこの時計屋の息子に時間を尋ね、気を逸らす。歩哨の注意を逸らす作戦は実際におこなわれたものだが、腕時計は映画のために導入された虚構のはずだ。同時に青山と歩哨との会話は、観客への時刻表示の役割も果たしている。

監督の小林恒夫と脚本の高岩肇は、この映画の公開からおよそ二年後に、再び二・二六事件を主題とする『銃殺』(64)を作り上げた。おそらく初めて同事件を主題とした映画だと思われる、佐分利信監督作『叛乱』(52)と原作を同じくする作品である。将校らの処刑にいたるまでの事件の過程を追った集団劇『叛乱』とは違い、『銃殺』では鶴田浩二演じる安藤輝三をモデルとした人物「安東大尉」に焦点を絞って、彼の心理的葛藤を描くことに主眼が置かれていた。もちろんこれらのほかにも同事件を真正面から描いた作品は存在するのだが、その数は意外に少ない。青年将校らの理論的指導者・北一輝を中心に据えた『戒厳令』(73)は事件そのものには斜めから斬り込むかたちを採っていたし、そのほかの場合はメロドラマの背景として利用されることも少なくない。そんななか、オムニバス映画『日本暗殺秘録』(69)の一挿話と『226』(89)が二・二六事件そのものに迫ろうとした作品だろう。だが、どちらかといえば青年将校らの心情に寄り添うような姿勢を示しているこれらの作品に対して、本作は体制側の視点に身を寄せつつ、首相の死にひとりほのかな疑念を抱き続ける下士官(織本順吉演じる関軍曹)を中心に、叛乱部隊側の動静をも公平に描いている(必ずしも愚かな若者たちとして一蹴してはいない)。こうした匙加減においても異色の秀作なのである。

INFORMATION

二・二六事件 脱出

監督:小林恒夫
原作:小坂慶助
1962年 日本

WRITER PROFILE

アバター画像
遠山純生 Toyama Sumio

映画評論家。著書・編著書に『紀伊國屋映画叢書①~③』(紀伊國屋書店)、『マイケル・チミノ読本』(boid)、『チェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグ』(国書刊行会)など。訳書にピーター・ボグダノヴィッチ著『私のハリウッド交友録』(エスクァイア マガジン ジャパン)、『サミュエル・フラー自伝』(boid)など。雑誌、劇場公開用プログラム、ソフト封入冊子等への寄稿多数。

関連タグ

ページトップへ