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「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ
長島有里枝
大福書林, 2020年

Written by 中村史子|2020.4.17

本書の書き手、長島有里枝は複数人いる。「著者」「長島有里枝」、そして「わたし」というふうに。

本書の目的は、「長島有里枝」に代表される女性写真家が90年代からどのように言説化されてきたのかを検証した後、彼女たちの表現の潮流を「女の子写真」から「ガーリーフォト」へと捉え直し、さらにその特徴をフェミニズムの文脈から再解釈するものだ。それゆえ本書は、客観的かつ分析的な「筆者」によって綴られ、調査対象である「長島有里枝」はあたかも別人格のように扱われている。

この奇妙な構造を前に、すぐに次のような疑問が浮かぶ。当事者である長島は何故、自らが置かれた状況やその時々の考えを「わたし」で語らないのだろうかと。写真家に限らずアーティストの多くは、一般的に、「わたし」の立場から自らの経験を語る。けれども、長島はわざわざ「筆者」という第三者的な姿勢で臨んでいる。

その理由は、本書の意義や動機を語る序章の「わたし」の言葉から推測される。本書では時に例外的に一個人としての「わたし」が登場し、「わたし」は次のように直截に語る。

「執筆の動機は、なによりも若かったわたし自身と同輩の写真家たちが、自分たちの表現を不本意なかたちで批評されながらも、年齢も社会的権力もはるかに上の男性(と何人かの女性)たちに反論することができなかったあの苦々しい気持ちに整理をつけ、失った自尊心を当然あるべき状態にまで回復したいという思いから生まれた。(注1)」

この一文から、「わたし」の言葉では真摯に聞き入れられない経験が過去に数多くあったことが想像される。長島が「わたしはこう考えた」等、自らの経験や考えを訴えても、「カメラの前でスッポンポンになっちゃう女の子(注2)」として登場し、「一見チャラチャラと、屈託なく人生を送って(注3)」「あらかじめ外部というものを生理的に断念(注4)」している「女の子」の意見として一蹴されてきたのであろう。残念ながら本書によれば、ここで「女の子」という単語にかかる修飾は全て、第三者が長島達を称してきた言葉であるからだ。

つまり本書は、「わたし」として満足に語り得なかった者が、「筆者」という人称を手に入れようやく自身の意見をまとめて発表できた一冊なのである。それだけで多くの人々が励まされ活力を得るだろうし、この時点で本書は非常に意義深いと言える。

加えて本書には、研究の穴をつく視点が多々盛り込まれている。その一つが、90年代半ばの「女の子写真」ブームによって断絶されてしまった、それ以前の女性写真家に関する検証である。90年には武田花、91年には今道子が木村伊兵衛賞を受賞しているが、武田や今の活動は、93年以降、写真を撮る女性が広く世間を賑わす中で覆い隠されてきたきらいがある。しかしながら、武田や今に向けられた言葉は必要以上に女性性や未成熟さを強調する点で、その後の「女の子写真」の言説と共通していると本書は指摘する。つまり、「女の子写真」ブームをめぐる熱狂的言説によって武田や今の表現者としての成果が等閑視される一方、「女の子写真」を期待する環境はすでにその時代に準備されていたと言えよう。

これら考察を辿ると、「女性の写真家は男性写真家と比較して少ない」という歴史的事象が、写真の鑑賞者や論者の中で一種の固定観念のようになってしまい、女性写真家の積極的な調査や評価を妨げてきた可能性に気づかされる。本書は歴史的視座をもって写真言説を再構築する必要性を改めて浮かび上がらせる。

また、本書が考察の対象とするのは写真をめぐる言説の次元であり、写真作品そのものではない。長島は多くの雑誌、書籍などの資料をもとに言説の偏りを証明するが、彼女達の写真作品に付与されるのに適正な言葉は、今後、作品それ自体から紡がれるべきだろう。彼女達の表現への然るべき評価が先送りされることのないよう、作り手である長島から研究者、批評家、そして多くの読者へと作品の注視と言説化というタスクは委ねられている。

なお、本書の肝要は、長島を含む女性写真家の活動を、第三波フェミニズムと結びつける結論にある。ポピュラーカルチャーを創造の資源とし、ジンなど手作りのメディアを通じて自己表現を展開する第三波フェミニズムと、女性写真家の活動を関連づける主張は非常に説得力のあるものだ。

ただ一方で、第三波フェミニズム自体もまた、多くの課題を含んでいる。第三波フェミニズムにおける個人主義や消費文化の肯定は、時にネオリベラリズム的な価値観(個人の自己責任に基づいた市場原理における成功)へと傾く傾向がある。さらに、昨今のフェミニズムの盛り上がりの中で、女性の地位向上や自由な生き方の選択といったフェミニズムのメッセージは、企業にとって魅力的なメディア戦略ツールとなりうる。資本主義のツールとしていったん取り込まれてしまうと、ライオット・ガールの牙は抜かれ、企業にとって都合の良いキラキラと活躍する女性のイメージばかりが喧伝されることだろう。その事態は、実は90年代の女性写真家が置かれた環境、すなわち女性を「もちあげもてはやすという形の逆説的な抑圧(注5)」と大差ないものかもしれない。

しかしながら、そこへ再び陥らないためにも、本書は書かれたのではないか。本書は、それら自分たちを手なづけようとする力に対し、鋭敏に反応し抵抗する知恵を届けるものである。女性の置かれた立場は90年代以上に一層複雑化して見えるが、それでも自分自身が望まないカテゴリーに囲い込まれてはいないか、事態を相対的に眺め改善するための視座を、長島は提供しているのだ。

1) 長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』大福書林、2020年、pp. XI-XII
2) 『フォーカス』1994年6月15日号、p.54
3) 飯沢耕太郎「カノジョたちは部屋にいる」『水戸アニュアル‘99プライベートルーム㈼』、水戸芸術館現代美術センター、1999年、p.11
4) 藤原新也『アサヒカメラ』2001年4月号、朝日新聞社、p.85
5) 島森路子「編集後記」『広告批評』1998年6月号、マドラ出版、p.140

INFORMATION

長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』

大福書林
2020年

WRITER PROFILE

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中村史子 Fumiko Nakamura

愛知県美術館学芸員。1980年愛知県生まれ、京都府在住。視覚文化、写真、現代美術が専門。主な企画に「これからの写真」(2014年)があるほか、新進作家の個展シリーズ「APMoA Project, ARCH」にて、伊東宣明(2015年)、飯山由貴(2015年)、梅津庸一(2017年)、万代洋輔(2017年)を紹介。また、国外ではグループ展「Play in the Flow」(シープラカード・ホテル、タイ・チェンマイ、2017年)を企画。

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