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日本現代アートサミット2019 「トランス/ナショナル:グローバル化以降の現代美術を語る」
公開キーノートレクチャー(2)「再構成、伝達、そしてステレオタイプ:日本現代美術への三つのアプローチ」:デヴィッド・エリオット氏
2019. 3.21 国立新美術館  

Written by 黒岩朋子|2020.1.24

photo by Ujin Matsuo

 

日本現代アートサミット2019

 「トランス/ナショナル:グローバル化以降の現代美術を語る」

公開キーノートレクチャー(2):デヴィッド・エリオット氏 (紅専廠現代美術館(中国、広州)副館長兼シニアキュレーター、2019年当時)

 

現代アートの専門家の国際的な相互ネットワーク構築を目指し、国内外の美術関係者が集い、3日間連続で議論した「日本現代アートサミット2019」。(文化庁が2018年度に始めたアートプラットフォーム事業の一環である本サミットの概要については、アレクサンドラ・モンロー氏の公開キーノートレクチャーを参照されたい。)

本年度のサミットのテーマ、「トランス/ナショナル:グローバル化以降の現代美術を語る」の議論を締めくくった英国人キュレーターのデヴィッド・エリオット氏による公開レクチャーについて、ここに報告する。

1970年代から展覧会の企画を始めたエリオット氏は、現在に至るまで国際的に現代美術の世界で活躍するキュレーターだ。モンロー氏と同時期に日本の近・現代美術に目を向けた一人でもある。1985年に英国オックスフォード近代美術館でエリオット氏が企画した「リ・コンストラクション:日本前衛美術の展開1945-1965」展は、1986年、ポンピドゥー・センターが行った「日本のアヴァンギャルド1910-1970」展や、モンロー氏の企画による1994年の「戦後日本の前衛美術 」展に先駆けて、戦後の日本の近・現代美術を欧米に紹介した事例として今に語り継がれている。また、東京の森美術館の初代館長として采配を振った5年間の経験は、その後、ニューヨークのジャパン・ソサエティ・ギャラリーにおいて2011年に開催された「バイバイキティ!!! 天国と地獄のはざまで-日本現代アートの今」展に繋がった。活動の場もオックスフォード近代美術館に始まり、ストックホルム近代美術館、森美術館、イスタンブール近代美術館と各国の館長職を歴任。中国の広州にある紅専廠現代美術館(2020年現在、閉館)での副館長兼シニアキュレーターを経て、現在も世界を舞台に活躍を続けている。近々アジアのアートについての著書『Art and Trousers: Tradition and Modernity in Contemporary Asian Art』も2020年に予定しているという。

本レクチャーでは、英国以外の美術に関心を持つようになった経緯を交えながら、グローバルな視点で近・現代美術と向き合ってきた経験を語った。

photo by Ujin Matsuo

1. 1970年代:キュレーターとしての出発点

エリオット氏によると、美術に関わるきっかけは、比較的若い時分に訪れたという。1960年後半に英国ダラム大学で歴史学を専攻していた頃は、人生について考え、冷戦時代の世界で何が起きているかを理解しようともがいていたそうだ。この歴史への関心は、自身が第二次世界大戦の終戦直後に誕生したことに深く関係していると自己分析する。そんななか、自国の文化以外の芸術とであう重要な契機が、学校近くにあったレスター美術館を偶然訪れたときにやってくる。

レスター美術館は乗馬や狩りを描いた英国絵画の所蔵で知られていたが、そのなかの二部屋には、1930年代にドイツのナチズムから逃れて英国に亡命したユダヤ人画家が描いた絵画が展示されていた。英国絵画とは、あまりにも違いすぎる、これまで目にしたことのない斬新な絵画表現にエリオット氏は衝撃を受ける。この「発見」から一種の閃きを得たという。所蔵作品のドイツ印象主義のローヴィス・コリント《カール・ルードヴィヒ・エリアス 7 1/4の肖像》(1899)や ドイツ表現主義のルードヴィヒ・マイトナ《終末論的な光景》(1912)は、ヒトラー政権下で「退廃芸術」の烙印をおされて破壊や焼却、また売却され、消されたドイツの前衛芸術であることを知る。「これらを退廃と呼ぶ表現をより深く知りたい」と思ったことが、国外の美術に目を向けるきっかけになった。そして大学在学中の1970年に友人が企画したシュルレアリスム展に触発されて、「動乱のドイツ: ドイツの芸術と社会 1900-1937」展を企画。印象派から「退廃」芸術に至るまでのドイツ文化にみるモダニズムの発展を考察した本展は、レスターのほかシェフィールドにも巡回した。

 

2. 1970年代後半:オックスフォード近代美術館

大学では歴史を専攻していたため、卒業後に初めて就いたレスター美術館の仕事では、自身の美術史に対する知識不足を痛感したそうだ。そして、更なる知識を得るためにロンドンのコートルード大学院に進んで美術史を修める。修了後はロンドンの英国アーツカウンシル勤務を経て、1976年にオックスフォード近代美術館の館長職に弱冠27歳で就任した。

エリオット氏が美術館と学術機関の両方に身を置いた1970年代は、美術史にとっても重要な時期であったと述懐する。それは、西洋における美術の動向において「我々がアヴァンギャルドと考えている時代の終わり」であった。米国の批評家のルーシー・リッパードの著書『芸術の非物質化 1966-1972』(1973)で、美術はその存在が消滅するほど「非物質化」していることを指摘したことを挙げ、その一方で「アートそのものが、どんどん物質性を脱して非物質化に向かうなか、別の流れを期待する人々の内側なる思いも湧き上がってきていた」と回顧する。

そのようななか、当時重要視されつつあったフェミニズム運動を先導していたメアリー・ケリー、スーザン・ヒラー、ジョー・ベアーの個展やアヴァンギャルド初期について考察したロシアの「エル・リシツキー」展(1977)、20世紀に起きた様々な戦争で上空から撒かれたビラを集めた「舞い落ちる一葉:上空からのプロパガンダ1916-1968」展(1978)などを企画。これらチラシの多くは第二次世界大戦とベトナム戦争の間で起きたアジアにおける争いを取り上げたものであった。「アレクサンドル・ロドチェンコ」展(1979)では「東西ヨーロッパのアヴァンギャルド史の再構築」の再考をアート界に促した。

photo by Ujin Matsuo

3. 1980年代(1):絵画への回帰

アヴァンギャルドが崩壊するなか、「アートの世界では、ミニマリズムとコンセプチュアリズムに反動して新しいものが切実に求められ始めた」とエリオット氏。そのなかで、ロンドンのロイヤルアカデミーでは、「絵画にみる新しい精神(A New Spirit in Painting)」展(1981)が開催、具象から抽象表現も含む広範囲な絵画への回帰動向を捉えて注目され、アート市場に活性化をもたらした。出展作家38名のうちそのほとんどは男性であったという。

世界の政治と経済では同時期にロナルド・レーガン米大統領とマーガレット・サッチャー英首相が「自由な世界とサッチャリズムとレーガノミクスのビッグバン」を牽引していたという。「政治における新しい精神」が注入され、市場開放の影響がアートマーケットにも広まり、「実に多くの資金が市場に流入した」とエリオット氏。「様々な新しい手法で生み出された資金は、ときにロンダリングが必要とされるようになった」と分析する。アートの市場が資金を投入するのに適した場所の一つとされたために、比較的手ごろな価格だった現代美術が、突然高額な商品に変貌したと振り返る。

そのような時流のなかにあっても、エリオット氏は一貫して歴史的な視点から展覧会を企画。「ウラジミール・マヤコフスキー」展(1982)では、ロシア未来派の詩人、マヤコフスキーが1930年にスターリニズムの圧政の下で自死に至る直前に企画したモスクワとレニングラードでの展覧会を再現。本展はソビエト連邦におけるロシアン・アヴァンギャルドの終焉の重要な一歩であった。ほかには、「絵画にみる新しい精神(A New Spirit in Painting)」展に参加していた、戦後ドイツの新表現主義のイルドヨルク・イメンドフの個展(1982)で、80年代においても重く漂う、当時の東西ドイツの冷戦の影を浮き彫りにした。そのことをさらに強調した「伝統と再生:東ドイツの現代美術」展(1984)をオックスフォード近代美術館で敢行する。

photo by Ujin Matsuo

4. 1980年代(2):グローバルアートとの出会い

エリオット氏は1980年代を「必ず時代は進歩するという、王道の考えが終りを告げたことで空白が生まれた」と回顧する。70年代に絵画に興味を示さなかったキュレーターが突然態度を変えたことで、作品そのものの評価とは何かと考えたという。そして、美術のクオリティーの判断は、他の事象と同じく比較によって評価されることを考えると、(西欧の)美術界がかなり限定されていると気づく。そして、欧州や米国在住の白人男性が美術界を率いている現状から、もっと広い枠組みで現代美術を捉える必要があると思い至るようになる。

そんななか、1982年にインドの美術に関する一連の展覧会を企画する機会が到来する。「インド:神話と現実-インド近代美術の一面」展では、1947年のインドの独立後に誕生した前衛絵画集団「ボンベイ・プログレッシブ・アーティスツ・グループ」から現代美術までを網羅、「脇道の神々たち」ではインドのフォークアートを取り上げ、民芸とアートの関係に注目した。そのほか、南インドの廃れた寺院を写したものから薬物中毒に罹った欧州からのヒッピーまでを捉えた「もう一つのインド:7人の現代写真家」展なども企画。本シリーズを契機に、「欧米以外のアートに出会う面白さ」を知ることになる。エリオット氏は実際の訪印に加えて、現地のアーティストや国立演劇学校の初代校長でインド現代美術の啓蒙と普及に主導的な役割を果たしたエブラヒム・アルカジ氏や1950年代からインドを紹介してきたギャラリストのヴィクトール・マスグレーヴ氏との対話によって、インドのアートを瞬く間に吸収していく。当時のことを「(インド展で)私は一線を越えた。一連の展覧会で紹介した、素晴らしい作品群が新しい領域に目を向けるよう、私の背中を押してくれた。」と回顧する。

 

5. リ・コンストラクション:日本前衛美術1945-65

南アジアの展覧会の後、エリオット氏の視線は更なる東へ向かい、日本について考えるようになる。当時、日本の戦後美術については、「具体以外、西洋ではほとんど無名」であった。オクスフォードの同僚たちに尋ねまわり、同地で戦後の日本近代美術をテーマに博士論文を執筆中の、海藤和氏を紹介される。エリオット氏は初めて彼女から日本美術の資料を見せられたときは、「本当に圧倒された」と述懐する。海藤氏の論考が核となり、1985年に「リ・コンストラクション:日本の前衛美術1945-65」展は実現した。

展覧会は、女性4名を含む36名のアーティストを通じて日本の戦後の前衛芸術を紹介。終戦から現在までの日本の美術の変遷を、同時代を生きる英国の観客が追体験できるよう、カタログの巻頭に、中村研一の戦争画《コタ・バル》(1941)と次頁に石川光陽の東京大空襲の記録写真を参考資料として掲載。このようにレイアウトすることで、当時の日本で文化が存在していたのかと半信半疑であった現地の観客に日本の第二次世界大戦の体験から生まれた表現を伝えた。これを序章に、会場では、敗戦直後を表現した深沢一郎の《敗戦群像》(1948)と原爆投下を思わせる古沢岩美の《憑曲》(1948)を対峙させ、戦後日本の現代美術の再建をたどる「リ・コンストラクション」展へと観客を誘う。展覧会は実際の戦後の困難と矛盾に焦点を当てるだけではなく、日本の近代美術のなかで軽視されてきた国内の前衛芸術についても検証した。展覧会と併せて編集者でデザイナーのマーク・ホルボーンによる、細江英公、東松照明、森山大道、深瀬昌久をとりあげた「黒い太陽:四人の眼、日本の写真にみるルーツと革新性」展、小企画「日本のダダ:1920年から70年」を同時開催。ここでは、白川昌生がデュッセルドルフのクンストハレで発表した作品も展示。そのほかフィルムを含めた多様な作品を紹介した。

レッドパージが最高潮にあった連合軍占領下の東京を描いた、岡本太郎《森の掟》(1950)を紹介しながら、「海藤さんと一緒に(日本で)調査ができたことが幸運だった」と語るエリオット氏。二人で実際に作品を日本で見てまわりアーティストたちと会うことで、日本の美術について「当時、何が起きたか、作品についてどんな思いがあるのか、戦後日本、そして東京の複雑性について感じることを凝縮して、吸収できた」と述懐する。《あけぼの村物語》(1953)の山下菊二については、「当時、日本国内では高く評価されていなかった」ことを思い出すそうだ。エリオット氏はその理由として、「日本の美術史で1945年から65年までというのは、一つの塊や時代として捉えられておらず、それぞれ細かく区分されていた」ことを挙げた。河原温の《孕んだ女》(1954)や《黒人隊》(1955)、石井茂雄の《暴力シリーズ:快楽》(1957)の1950年代の日本の街に漂う占領軍の影と、警官と人々が衝突した1952年のメーデー事件を扱った中村宏の《革命都市》(1959)などのルポルタージュ絵画には、シュルレアリスムとフランスの実存主義の強い影響が感じられたという。これらの作品全てに米国の文化的影響と復興後に台頭する権威主義への抗いが表現されていた。

1960年代では、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズの銀座でのアクションの記録やハイレッドセンターの高松次郎、中西夏之、赤瀬川原平の作品と当時東京で彼らが行った様々な「イベント」の記録を展示。「これらの驚くようなパフォーマンスは、パンク以前のパンク」と評するエリオット氏は、「当時、世界のなかで東京はブエノスアイレスやニューヨークと並び、ロンドンやパリよりもエネルギーに満ちていた」と分析する。そのほか、具体美術協会のアーティストや九州派の菊畑茂久馬ほか、草間彌生、堂本尚郎、今井俊満、荒川修作、菅井汲などの絵画や彫刻を展示した。

エリオット氏はリ・コンストラクションとは「国や街の再建のことをさすのが一般的だが、同時にその国の歴史の再構成ともいえる」と指摘する。日本の戦後美術については、具体は多少欧米で認知されていたにせよ、「ルポルタージュ絵画などは誰も知らないし、気づきもしなかった。ましてや(西洋の)シュルレアリズムが、とても健やかに戦後も日本で継続されていることなど誰も知らなかった」と回顧する。

photo by Ujin Matsuo

6. トランスミッション:二都市物語

森美術館で開催された「東京―ベルリン、ベルリン」展(2007)では、都市の間における文化の伝達(トランスミッション)について考察。展覧会は19世紀末から現在までの東京とベルリンという、当時新たに再創造された二つの首都物語だ。芸術表現と全く異なる世界観を持つ二つの文化の下で、芸術家や建築家、デザイナーがどう影響し合ったかを、150年の間に制作された、建築、絵画、写真、デザイン、インスタレーションを通して考察した。

ベルリンと東京には多くの交接点の一例を紹介すると、日本の司法省庁舎(法務省旧本館)の基本設計を手がけた、お雇い外国人建築家、ドイツのヘルマン・エンデとベックマンや、のちにバウハウスの前身となるドイツ工作連盟(DWB)を率いたヘルマン・ムテジウス(1861-1927)による、東京でのドイツ福音主義教会などが挙げられる。ドイツ流が日本に伝わるその一方で、ベルリンではエンデ&ベックマン事務所設計のベルリン動物園の建造物に日本情緒が見られたという。(第二次世界大戦下で破壊されエレファント門以外は現存していない。)東京の官公庁建築にドイツの建築表現が認められる一方で、ベルリンでは異国情緒をそそるジャポニズムが広まった。1900年に欧米巡業で人気を博していた川上一座の女優、貞奴を描いたドイツ表現主義のマックス・スレーフォークトやドイツ表現主義の筆頭であった、エルンスト・ルドヴィッヒ・キルヒナーの絵画に歌舞伎や芸者、春画に影響が認められる。そのほか、さまざまな美術動向を1910年以来紹介してきたベルリンのシュトルム画廊での展覧会と同画廊発行の隔月雑誌『シュトルム』が、当時ベルリンに留学していた作曲家の山田耕筰と図案家の斎藤佳三の手によって一部日本に持ち帰られた。東京でオスカー・ココシュカ《殺人者の女への願い》やフランツ・マルクのドローイングや版画を含んだ「シュトルム木版画展覧会」(1914)が開催、普門暁や恩地孝四郎、長谷川潔などの若手芸術家は日本で初めて目にした欧州の前衛芸術のオリジナル作品からドイツ表現主義やイタリアの未来派の刺激を受けた。また、ドイツの美術とシュトルムギャラリーは、当時日本に強い影響を与えていた理由として、裏面にドイツ語のSelbstbildnis(自画像)の文字が残る、萬鐵五郎《赤い目の自画像》(1912)を紹介。

第一次世界大戦後直後の日本において、ベルリンから受けた前衛芸術の影響は同地に滞在していた村山知義、和達知男、永野芳光らの若手芸術家と作家がダダを現地で観たことで強化された。帰国後に村山は、ダダなどにも通ずるマヴォ・グループの創設者の一人となり、雑誌の発行やパフォーマンスやアクションを組み合わせた作品を発表。そのほか、バウハウスの影響がベルリンと東京のアートとデザイン双方に観られる点についても着目。「暗黒時代」の1930年代と日本の軍国主義とドイツのナチズム台頭がおきた40年代初頭にみる同時代性、両都市が経た戦後の復興なども作品を通じて触れた。

エリオット氏によると、本展は単に類似や差異に着目した二都市間の文化交流だけではなく、人々の心に響くような、世界中の近代化で生じる困難で時には悲劇的な物語も辿ったという。また、その過程において既存の文化交流史よりも複雑な歴史を紐解いた。そこでは、日本におけるモダニズムの到来は、西欧を主導していたパリの文化的影響下のみにあるような、これまでの美術史観についても挑戦したと語っている。」

photo by Ujin Matsuo

7. ステレオタイプ:「かわいい」からの決別

ニューヨークのジャパン・ソサエティ・ギャラリーで開催された「バイバイ・キティ!!!天国と地獄のはざまで-日本現代アートの今」展(2011)では、日本の現代文化の「カワイイ」で連想される、猫を擬人化したキャラクターを引用し、日本の文化に内在するステレオタイプについて考察している。本展は以前に同館で開催された、村上隆キュレーションの「リトルボーイ:爆発する日本のサブカルチャー芸術」展(2006)に呼応する。広島に落とされた原爆の名に由来する「リトルボーイ」展は、オタク文化がテーマであり、村上はその根底に日本の社会と政治全体の幼児性のためだと指摘する。それは、戦争および軍備を放棄し、交戦を禁止した、日本国憲法第九条によって、戦後、日本が大人であろうとすることを奪われたためだという。

エリオット氏は、幼児性は日本が自国を守ることができないという村上の主張は、日本の文化とオタクの現象の双方を単純化していると思ったという。「日本には本物の自己批判性を持つ文化が存在する」と述べ、「自分自身と自分の社会について批判的に捉えるだけでなく、世界全体のなかの自分の場所について考えている日本人はいる。」とする。『バイバイ・キティ!!!』展は、日本文化のステレオタイプな可愛らしさに対抗し、これを覆そうとした。そして、展覧会においてアーティストがもちいる『カワイイ』は、紛れもない皮肉が込められていることを指摘した。

展示は、1960年代半ばから80年代初頭にかけて生まれた、奈良美智をはじめ、会田誠、やなぎみわ、名和晃平、塩田千春ほか16名のアーティストが参加。絵画、彫刻のほか、インスタレーション、ビデオ、写真を通して、平成の日本の社会と文化状況に鋭く切り込んだ作家たちの多様な視点を探る。会田誠の太平洋戦争を題材にした絵画のシリーズ「戦争画Returns」やサラリーマンの屍を描いた山水画《灰色の山》など、日本の伝統的表現や近代美術を現代の文脈で捉え直している作品も多い。会田の絵画は従順な女性像を求められる社会の圧力を跳ねのけるような、やなぎみわの「Windswept Women」や「Grandmothers」シリーズなど、日本社会をより複雑な視点で捉えた作品と対峙するように展示された。それぞれの作品は、「記憶への冷徹なまなざし」、「脅威にさらされる自然」、そして「不穏な夢」の三セクションのなかで現代日本を批判的に照射する。

本展は、村上隆のオタク文化のアニメと漫画で語られてしまうことが多かった近年の日本の現代美術を読み解く、もうひとつの視座を観客に差し出した。外国人と日本人の双方が夢中になるオタク、アニメ、マンガのマスメディア言語と対極にあり、アートと日常生活や人生における、繊細で洗練された人間の奥底にある関心や懸念を示そうとした。(そして、本展は奇しくも東日本大震災の発生と時期が重なったこともあり、ニューヨークで大きな関心を集めることとなった。このことが、広い意味での日本の文化や社会、政治に対する関心を高めることになったのだった。)

photo by Ujin Matsuo

エリオット氏のキー・ノートレクチャーからは、日本ではあまり紹介されることのなかった、学生時代にドイツの退廃芸術と運命的な出会いを果たして以来、日本を含めた非西洋への飽くなき探求心、そしてグローバルで脱植民地化した美術史の再構築に力を注ぐ氏の活動の足跡を知ることができた。それらは、終戦直後に生を受け、戦後史を歩んできた氏の人生とも重なる。時系列で辿ったキュレーションからは、氏に訪れた数々の転機がヨーロッパ中心主義的な視点への問いとなり展覧会となったことが分かる。西洋主流の美術の外側にあった美的な価値への思考と伝統を果敢に紹介して、欧米以外の視点を世界の観客に提示してきたエリオット氏のレクチャーは、日本を含めたグローバルな美術を世界中の観客に向けて展示することができる方法について考えさせてくれたのだった。

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デヴィッド・エリオット:

 英国の美術史家、キュレーター、著述家、教員。オックスフォード近代美術館 館長(1976-1996)、ストックホルム近代美術館 館長(1996-2001)、森美術館 初代館長(2001-2006)、インスタンブール近代美術館 館長(2007年)などを歴任し、現在は紅専廠Redtory Museum of Contemporary Art (RMCA) および広州創意芸術区 副館長兼シニアキュレーター(2019年当時)を務める傍ら、ベルリンのMOMENTUMのアドバイザリー・ボードの委員長も務める。ソ連およびロシア・アヴァンギャルドおよびアジア近現代アートの専門家であり、これらの分野における幅広い著作物を多数出版。また、第17回シドニービエンナーレ アーティスティック・ディレクター(2008-2010)、キエフ国際現代アートビエンナーレ アーティスティック・ディレクター(2011-2012)、モスクワビエンナーレ アーティスティック・ディレクター(2013-2014)、ベルグラード オクトーバーサロン アーティスティック・ヂレクター(2014-2016)なども歴任。2019年には新しい著作『Art and Trousers: Tradition and Modernity in Contemporary Asian Art』が香港・ロンドンのArtAsiaPacificから出版される。

INFORMATION

【文化庁アートプラットフォーム事業】
日本現代アートサミット2019
トランス/ナショナル:グローバル化以降の現代美術を語る

公開キーノートレクチャー(2)
講師:デヴィッド・エリオット (紅専廠Redtory Museum of Contemporary Art (RMCA)副館長兼シニアキュレーター)
モデレーター:林道郎 (上智大学国際教養学部教授)
日時:2019年3月21日
会場;国立新美術館
主催:文化庁

WRITER PROFILE

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黒岩朋子 Tomoko Kuroiwa

キュレーター 。コーディネーター。森美術館学芸部勤務を経て、2009~2018年までインド、ニューデリー在住。滞在中は現地から現代美術情報を美術雑誌に紹介するほか、日本の国際展や展覧会の現地コーディネイトおよび調査に携わる。主な活動に、国際交流基金「Omnilogue:Journey to the West」展(2012)、現地コーディネーター(デリー)、第5回福岡アジア美術トリエンナーレ2014協力キュレーター(インド)、小沢剛「The Return of K.T.O.」(2017)の現地制作コーディネイター(コルカタ)など。現在は拠点を東京に移し活動。最近では、東京都現代美術館「石岡瑛子ー血が、汗が、涙がデザインできるか」展のコーディネイターを務める。

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