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PERFORMANCE

ARICA+越田乃梨子『終わるときがきた』
BankART Station
2022.12.17 – 11

Written by 藤原えりみ|2023.3.17

写真:宮本隆司 ©︎ 2022 ARICA「終わるときがきた」

 

老女が独り。彼女はトートバッグを枕にベンチに横たわって眠っている。ベンチの傍にはキャリーカートに紐でくくられたバッグが二つ。目を覚ました彼女は体を起こし、声を出さずに何かを口ずさみ、ペットボトルの水を飲む。ベンチに片肘をついて足を振り上げながらオペレッタ「メリー・ウィドウ」の「唇は黙して」を歌い出す。だが楽しそうな表情で歌う彼女を突然蚊が襲う。頬に止まった蚊を仕留め、唾を吐いた手のひらを振り払う。そして、手で顔や体に触れながら、自らの身体の存在を確認するように「唇、目、鼻、首筋、おっぱい」と呟く。

彼女が着ているブラウスには何故か小石の入った四つのポケットが。両手で胸のポケットと腹部のポケットを揉み、右胸のポケットから二つの石を取り出す。二つの小石を打ち合わせ、嬉しそうな歓声をあげて笑う。遠くから救急車のサイレンや車の走る音。そう。彼女はホームレスなのだ。一つの石をポケットにしまい、左手に持った石を愛おしげに舐める。そしてそれを腹部のポケットに放り込む。しばらく小石を出したり入れたりしているが、何か不満でもあるのだろうか。一つの小石を懐疑的な表情で眺め、口に放り込む。が、しばらくして口から出し、放り投げる。

と、突然、鼻水が。彼女は慌てて袋から大きめのハンカチを取り出し、鼻をかむ。そのハンカチから滑り落ちた何かが大きな音を立てる。それは小さな黒い袋。その中に入っていたのは、鈴のついた鍵。彼女は微笑みながら鍵を見つめ、ゆっくりと回そうとするが即座に袋にしまう。鍵は再びハンカチに包まれバッグの中に。犬の遠吠え。振り向いた彼女は左手の指を折って何かを数え始める。

 

写真:宮本隆司 ©︎ 2022 ARICA「終わるときがきた」

 

ここで初めて明確な彼女の声が会場に響く。「数えている/内でも外でも/いつまでも風は吹かない」。だがこのセリフはあらかじめ録音された音声だ。目の前の老女の実際の声は「唇は黙して」の歌声と意味不明の叫びや発話、そして自らの身体部位に関する単語だけだ。再びペットボトルを手にし、かしゃかしゃと振ってからバッグにしまう。すると、上手から唐突に直径18㎝くらいの缶が転がってくる。彼女は立ち上がり、ゆっくりと缶の後を追い下手の方に歩き出す。

ここで、背後にずらりと並んだフットライトに光が灯される。下手を照らし出すスポットライトの光の中で、彼女は鍵を取り出す。しかし堪えるような表情で鍵をポケットに入れ、ベンチに戻っていく(フットライトは消えている)。そして、何かを確かめるように振り返る。ベンチに座った彼女を照らす照明がフェイドアウトしていく。

ここまでが第1シークエンス。これが4回繰り返されるのだが、録音された彼女の声と仕草の微妙な「反復と差異」の連続が物語を終盤へと導いていく。

2回目が始まる。眠りから目覚める彼女の背後に、右側横からの角度で写された彼女の姿がクローズアップで映し出される。現実空間の老女の振る舞いと映像のなかの老女の振る舞いは完全にシンクロしている。「実写映像なのか?」と思いつつ見ていると、また缶が転がってくる。缶に導かれるように立ち上がる彼女の背後の映像には、彼女の背中越しに遠くに瞬く街の光と足元の枯れ草、そして街の音。公園のベンチ(みんなのベンチ)に座っていた彼女は、ゆっくりとどこかに向かっていく(フットライト点灯)。そして映像の中の彼女の前に現れたのは、白い壁の家のドア。ドアに向かって鍵を差し出すが、「とまれ」という声が響く。

彼女は諦めたように肩を落とす。続いて「なんでもない/ずっとしかたなくここにいる/なにもなくここにいる/わたしはわたしに閉じこもっている/外にいてもひ・と・り/終わるときがきた/終わるときがきた/動きはない ふるえはない/しかたなく休んでいる/みんなの椅子にすわる/みんなの広場でじっと/全員の数を数えている/全員はいない/いなくなる/数えている/内でも外でも風は吹かない/みんなの椅子にすわる/私には吹いてこない/ただわたしの目のまえに/立ちどまるひと/立ち去るひと/みんなの椅子にじっとしている/同じようにしかたなくここにいる/ここにとどまる/なんでもない/ずっと/わたしはわたしに閉じこもっている/外にいてもひとり/終わるときがきた/終わるときがきた……」という声が。彼女は再びベンチに戻る(フットライト消える)。暗転。

3回目、眠っている老女。犬の遠吠え。映し出されたクローズアップ映像は目の前の老女の動作より遅れ出す。ここで、気付く。私たちが聞き取る音声も目にしている映像もすでに記録されたものだと。映像の老女は目の前の老女よりも大きい。まるで目の前の実在の身体を備えた老女がより大きな映像としての「私」に閉じ込められたように見えてくる。実在の「私」は映像の中の「大きな私」に吸収されていく……。目の前にいる安藤朋子という役者の身体は夢の中の存在のように実体感を失い、実在しない巨大な映像の中の「安藤朋子」という身体が実在性を獲得していく。ヴァーチャルとリアルのあり得ない交換に、観ている観客自身の実存性も浮遊し始める。「私はいったい今どこに存在している」のだろうか、と……。

4回目のシークエンスのラストでは、映像の中の老女は目の前に現れた白い家のドアの鍵を開ける。家の内側から明るい光が差し込み、彼女もまた白く輝く。彼女は家に向かって一歩を踏み出す。それが、彼女の人生の終わり。打ち捨てられた孤独な人生の最後。だが……この光に満ちたラストには、指先からこぼれ落ちそうな危うさを秘めつつも微かな微かな救済が潜んでいるのではないだろうか……。

 

写真:宮本隆司 ©︎ 2022 ARICA「終わるときがきた」

 

「外にいてもひとり」という言葉には、所属するコミュニティを失った人間の孤独が滲む。だが、それと同時に、ARICAの『終わるときがきた–ロッカバイ再訪』(2019年7月、京都大学で上演)で、家に引きこもったまま人生の最後を迎える老女のセリフ「椅子/最後は椅子に/言い聞かせる/もうこのわたしを眠らせて/わたしの目を閉じてほしい/死んでしまえ/わたしの目を閉じてほしい/もうこのわたしを眠らせて/もうこのわたしを眠らせて」と呼応しているのではないだろうか。家があっても家を失っても、人は孤独な存在であり、死はその孤独な存在がたどり着く「時」の終わり……。『終わるときがきた–ロッカバイ再訪』の老女の「終わりの時」は本人の望む「自然死」であろうと思われるが、本作では「ひとりが通りにやってくる/ほかはこなくてもひとりだけはくる/いつかくる/やっとその日がきた/ついにきた」というセリフが響く時、こちらの老女の人生に終止符を打つのは「自然死」ではないことに気付かされる。

 

写真:宮本隆司 ©︎ 2022 ARICA「終わるときがきた」

 

2020年11月16日午前4時頃に発生した事件が脳裏をよぎる。渋谷区幡ヶ谷のバス停のベンチで眠っていたホームレスの女性が頭を殴打され殺害された。その存在が「邪魔だった」という理由だけで。他者への慈しみも共感も失われつつある日本社会の深淵を覗き込む。コロナ禍で職を失いホームレスになった彼女に何の咎があったというのか。バス停のベンチで夜を過ごしていただけなのに。そして、私もあなたもいつ何時、彼女と同じように理不尽な死を迎えるかもしれないのだ。テクスト・コンセプト担当の倉石信乃がこのテキストを脱稿したのは、事件よりも4ヶ月前のことだったという。創作する者の直感が描き出す時代のアクチュアリティに慄然とする。殴打されて亡くなった彼女の人生が抱え込んだ痛み、そしてその痛みに思いを馳せる私たちの悼み。それを声高に叫ぶことなく、実演と記録映像&音声というメディアミックスを通して伝える作品だからこそ、より多くの人々に体験して欲しいと思う。円盤化あるいは有料映像配信を強く望む。

INFORMATION

ARICA+越田乃梨子『終わるときがきた』横浜公演

会場:BankART Station
日時:2022年12月7日 − 11日
演出:藤田康城
映像・コンセプト:越田乃梨子
テクスト:倉石信乃
出演:安藤朋子
音楽・演奏:福岡ユタカ
装置:高橋永二郎
衣装:安東陽子
衣装製作:渡部直也
照明:岩品武顕
音響:田中裕一
宣伝美術:須山悠里
制作:福岡聡、前田圭蔵

WRITER PROFILE

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藤原えりみ Erimi Fujihara

美術ジャーナリスト。東京芸術大学大学院美術研究科修了(専攻/美学)。女子美術大学・東京藝術大学・國學院大学非常勤講師。著書『西洋絵画のひみつ』(朝日出版社)。共著に『西洋美術館』『週刊美術館』(小学館)、『ヌードの美術史』(美術出版社)、『現代アートがわかる本』(洋泉社)など。訳書に、C・グルー『都市空間の芸術』(鹿島出版会)、M・ケンプ『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(大月書店)、C・フリーランド『でも、これがアートなの?』(ブリュッケ)など。

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