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PERFORMANCE

庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』
森下スタジオ 2018.6.28 – 7.1

Written by 岩城京子|2018.7.11

撮影:杉能信介

 

「ポスト真実」というタームが人口に膾炙するまえから、タニノクロウはことばの嘘臭さに感づいていた。だから俳優のセリフも、心理的にではなく、物体や音のように扱う。一義的な嘘を発する「コトバ」に対し、多義的な真実を孕める「モノ」の優位性を示す。結果、庭劇団ペニノの演劇作品では、狂気的な量の美的オブジェクト、計算されつくされた光、そして物的人体で埋めつくされた、舞台装置が提示されてきた。

最新作『蛸入道 忘却ノ儀』が、旧作から発展的変化を遂げた点は大きく二つある。第一は、廣松渉のことばを借りて説くなら「モノ」的世界から「コト」的世界への転換。第二に、観客を含む人間の肉体性の称揚だ。

まず一点目から説明する。上述したようにペニノの作品では、いつでも有機的人体よりも、無機的なモノに最大限の労が注がれてきた。確かに本作でも、会場のなかに巨大なお堂が建立されており、その設計精度には度肝を抜かれる。だが本作の眼目は、この「モノ」を愛でることにはない。そうではなく本作では、堂内に観客を迎え入れ、そこで蛸入道が説く般若心経を歌い、踊り、奏でる儀式という「コト(イベント)」に参加する体験性が重視される。よって舞台美術も、第四の壁の向こうにある物体として凍結されず、お札がべたべたと無作為に貼られ、水飛沫や煙で汚される。演者や観客と呼応し、呼吸をする「生きた美術」になっている。それこそ、二〇世紀舞台美術の巨匠ヨセフ・スヴォボタの「心理的可塑空間(psycho-plastic space)」のように。

撮影:杉能信介

 

第二に、つねづねオブジェクト扱いされてきた人体が、本作では血と汗がかよう肉体を持った存在として称揚される。実際、演者たちは、古今東西の要素を混在させたオルタナティブロック的な音楽(作曲:奥田祐)を演奏し、ディジュリドゥ、大太鼓、エレキベース、津軽三味線などの振動音とともに汗を飛び散らす。タニノはことばを超えた五蘊(色受想行識)での、観客との対話を試みる。

本作が即身成仏儀式の批評的パロディなのは明らかだが、蛸入道の経典では、肉体の快楽性さえ経典(「眞楽性生」真の快楽を得るため)に組み込まれ承認される。その意味で、性的要素がより強調されなかったのは残念。とはいえ全体的には、禁欲的な仏教儀式というよりも、多幸感溢れるレイヴのような雰囲気が漂ってくる。

 

撮影:杉能信介

 

「すべての現象は空なのです」という経文が示すように、最終的に本作で提示される、形ある「表象」は真実として信頼できない。八角爐の火がフェイクであり、般若心経のそこここが変えられていることも含め、どこかポストモダンに嘘臭い。手元の経文や、指示が表示される電子掲示板ばかり眺めていると、極めてブレヒト的に煙に巻かれたような醒めた気分になる。ただ言葉以外の情報——楽器の振動音、体に滲む汗——に耳を澄ませば、二時間半の体験が「事的」にリアルであったことを告げている。

INFORMATION

庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』

森下スタジオ 
2018.6.28 - 7.1

WRITER PROFILE

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岩城京子 Kyoko Iwaki

演劇研究者。二〇〇一年から日欧現代演劇を専門とするジャーナリストとして活動したのち、二〇一一年よりアカデミズムに転向。ロンドン大学ゴールドスミスで博士号(演劇学)を修め、同校にて教鞭を執る。専門は日欧近現代演劇史及び、哲学、パフォーマンス学、ポストコロニアル理論、批判理論などに広がる演劇応用理論。単著に『日本演劇現在形』(フィルムアート社)等。共著に『Fukushima and Arts – Negotiating Nuclear Disaster』(Routledge)、『A History of Japanese Theatre』(ケンブリッジ大学出版)など。二〇一五年よりScene/Asiaチーフ・ディレクター。二〇一七年に博士号取得後、アジアン・カルチュラル・カウンシルの助成を得て、ニューヨーク市立大学大学院シーガルセンター客員研究員に。二〇一八年四月より早稲田大学文学学術院特別研究員(PD)。  

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