早稲田大学大学院文学研究科(演劇学・舞踊)修士課程修了。現代劇、伝統芸能、バレエ、ダンス、ミュージカル、オペラなどを中心に執筆。現在、Webマガジン『ONTOMO』で聴覚面から舞台を紹介する「耳から“観る”舞台」(https://ontomo-mag.com/tag/mimi-kara-miru/)、バレエ雑誌『SWAN MAGAZINE』で「バレエファンに贈る オペラ万華鏡」、バレエ専門ウェブメディア『バレエチャンネル』で「ステージ交差点」(https://balletchannel.jp/genre/ayako-takahashi)を連載中。第10回日本ダンス評論賞第一席。
撮影: 宮内勝
ティーファクトリー+雑遊『路上5 – 東京自粛』が、オンライン配信の収録を兼ねて、報道関係者用の公演を行った。
2007年のSpace雑遊オープン時に若手俳優のワークショップとしてスタートし、川村毅の作・演出、小林勝也の主演で、新宿を舞台に、一貫して“都市を彷徨う男が巻き込まれる悲喜劇一時間一幕”を上演してきた『路上』シリーズ。2011年の第4弾は、東日本大震災を受けての緊急公演だった。そして、新型コロナ・ウイルス禍の中で川村が新たに筆をとったのが、今回の第5弾だ。
撮影: 宮内勝
物語は、熱が出て入院していた田宮(笠木誠)が退院後、本を差し入れてくれた村上(小林勝也)の部屋を訪ねる場面から始まる。村上は部屋で倒れており、田宮に起こされると、治療薬もワクチンもない謎のウィルスが全世界的に蔓延する夢を見たと語り出す。夢の中で体験したステイホームやソーシャルディスタンス、マスク着用義務や飲食店の営業休止を「世の中あんなことになっちゃったら死んじゃう」と言う村上に、田宮は全てを夢として通すことを決意し、旧知のセシル(占部房子)もこれに加担する。そんな彼らの前に、謎の隣人ジョニー(久保井研)が現れ、物語は混迷してゆくーー。
興味深いのは田宮が、コロナ禍という現実を夢と勘違いした村上がもう一度眠って起きれば、彼は夢の世界、すなわち現実に戻ると考え、幾度も村上を気絶させること。かくして村上は、コロナ禍の現実を夢ととらえる時間と、その夢の中を生きる時間とを交互に生きることになる。ただし、現実を現実と認識する時間においても「今は夢の中なのだ」と考えるなど、彼の夢と現実の境界はそもそも曖昧模糊としている。
撮影: 宮内勝
そんな村上に振り回されながら、状況を理解しているはずの田宮とセシルは、彼の現実観(あるいは“夢”観)に取り込まれていく。「あたしたち、おっさんの夢の登場人物なのかもよ」と言うセシルと、「なんだか現実感がある。夢の中かも知れないって現実感だ」と肯う田宮。根底に流れているのは、多くの人に共通するであろうコロナ禍への思いだ。ロックダウンあるいは“自粛”の名目下、社会・経済活動が停止し、私達は出口の見えない不条理へと突き落とされた。その間の過ごし方はそれぞれ違うだろうが、どこか非現実的な感覚を抱いていた人は少なくない。すっきりと終わることなくどこまでも続く悪夢は、今なお人々に影を落としている。その一方で、「悪い夢じゃなかった」「誰もいなくなってやっと自分の街になったみたいだった」と自粛期間を語るセシルの言葉もまた、無数の人々で賑わっていた町、電車、劇場が、かつてなく空いていることに対して私達が、胸の痛みと共に覚えるある種の特別感や快適さと重なるだろう。
撮影: 宮内勝
劇が進むにつれて、次第に輝きを放っていくのは村上だ。どうせ夢なのだからと愛を語り、拳銃を振り回す。心もとなく彷徨うかに見えた老人が、ふとした瞬間にハードボイルドの主人公のようになるさまを、小林は生き生きと演じた。村上、田宮、セシル、そして村上に立ちはだかってキツイ一発をお見舞いするジョニーはいずれも、新宿という街の底辺で、根無し草のように生きる人間達。劇中、彼らのたくましさだけが、確かなものだったと言えるかもしれない。
歌舞伎町、ホストクラブ、都知事の「小池薔薇子」、アベノマスク……と、コロナ禍を象徴するワードや品物が散りばめられるこの劇にうってつけなのが、シリーズ全ての会場であり、今春リニューアルオープンして程なくコロナ禍に見舞われた雑遊だ。このスペースから一歩外に出れば、そこは新宿の繁華街。夢と現実の境界は、更に曖昧に滲んでいくようだった。
INFORMATION
路上5 - 東京自粛
作・演出:川村毅
出演:小林勝也、占部房子、笠木誠、久保井研
オンライン配信: 2020年9月5日 - 9月30日