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PERFORMANCE

ローザス『A Love Supreme~至上の愛』
東京芸術劇場プレイハウス、2019年5月9 – 12日
前篇

Written by 湯山玲子|2019.7.10

Photo: Akihito Abe

既視感とクリシェは、今、全ての表現者の前に立ちはだかる大きい壁だ。

「もう、新しい事なんて何もない」という呪いの言葉は、映画、演劇、音楽、アートという全ての表現についての大前提。昨晩とて「こんなことはとっくにライヒがやってるだろー古典芸能かオマエは」的な現代音楽の新作を聴いたばっかりなのだが、それでも、らせん階段の定点のように、上から見たら同じ場所だけれど、横から見ればそれは上下の違いがある、というような時代というファクターが入った、別の新しい表現は現れ続けている。

しかし、問題はダンスというジャンルなのですよ。なぜならば、それはとにもかくにも、踊る人間の身体が頭と胴が一つずつ、手と足それぞれ2個、関節の曲がり方は決まっているという、表現主体の制限があるから。というわけで、「人間の身体がどこまで”信じられない動き”をするのか、というテク方向に行きやすいのがこのジャンルでもある。クラシックバレエはまさにその頂点であり、その鍛え上げられた身体と超絶技巧のガッチリした鋳型の中でどれだけ、至高の表現をなしうるか、ということに、未だに多くの人々が魅入られている。

その一方で、土方巽に端を発し、大地を摺り足で移動するような東洋的な身体感覚を持った舞踏、バレエに対するレジスタンスとしてのノイエタンツの潮流、社会制度の中の身体というものを感じざるをえないピナ・バウシュ等の新しいダンス表現が出て来たが、どうにもその先はなかなかに難しいのだ。

新しい表現のキーはダンスに不可欠の音楽だ、と、そちらの方にゆだねてしまって(何せこちらのストックは膨大で、踊られていない音楽はたくさんある)、「見る音楽」とも言える表現を狙った作品は多いが、そう簡単ではない。音楽の自由さと豊かさを、視覚に映るダンスの方が狭めてしまうという残念な結果を私は今までたくさん目にしてきた。そういえば、一時期、ダンスの破壊と創造(ああ、こういうドグマがまた、アートのクリシェなのだが)を目論んだキューレーションが流行ったが、それはもう、「舞台に人が出て来て、何かやればそれがダンスなんじゃね?」というような惨憺たるラインナップだったことを思い出す。

Photo: Akihito Abe

今回のローザスの演目は、「A Love Supreme~至上の愛」と、「我ら人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲」。前者はコルトレーンの、そして後者は、バッハの大名曲を堂々と歌い上げた、恐ろしく挑戦的なラインナップである。それでも、バッハの無伴奏はまだいい。未だに多くの映画の重要シーンにバッハが用いられるように、料理で言ったら白米のように多くの味わいの土台となる、懐の深さがあるからだ。しかし、コルトレーンのジャズはどう考えても、ヤヴァい。何せ、「音楽がその場面、場面でいかに関係や重力から離れていくか、つまり自由」がジャズのインプロビゼーションのキモだけに、人間の肉体がいかに動こうともそのダンスそのものが、音楽のアンカーになってしまうことは、充分に予想できてしまうからだ。もっと悪いことには、クラシック音楽を基本とするバレエに関する、お手軽なアンチテーゼとして、モダンジャズはダンス音楽に安易に使われてきた歴史があり、作品的には死屍累々。私自身、悪い記憶しか残っていないありさまなのだ。

さて、これだけの「大丈夫か?」予想の中で始まった「A Love Supreme~至上の愛」だったが、結果はそんな意地悪な予想を遙かに超えた、素晴しいものだった。批評に耐えうる、つまり、コルトレーンのかの名曲を使った時に陥る陥穽は全方向に予測し、その罠を避け切った、ある抜群のアイディアの上で成し遂げられた、そう、極めて知的な表現が出現したのである。

Photo: Akihito Abe

イントロダクションは、無音から始まる。シャツとスボンを着たダンサーが、体操のように身体を回したり、瞬間、空手のエクササイズかと思われるようなダンスを始める。かなり長い時間、その肉体の動きを前にしていて感じたのは、思いもかけなかったダンサーとの共感覚だった。ダンサーがくるりと身体を翻す、上を仰いで、次には胸を抱いてかがみ込む。その一連の動きの全ては「一般人の私にも出来るもの」であり、いつのまにか、こちらの心はダンサーと同期し、「回転すると世界が回って、面白いぞ」「動くと楽しいぞ」といった、とうに忘れていた感覚が自分自身の脳から引っ張り出され、感情を動かすまでに蘇ってくるのだ。

言わば、私にもあなたにも備わっている「地上の肉体」の脳内体感。無音+イージーゴーイングな動き、というスタイルはそれこそ今までいろいろ見てきたのだが、こんなことを強く感じさせられたことは初めて。「いきなり本質が来る」と、これ、実はクラシック音楽の超一流の演奏に共通のものだが、そのあとの「我ら人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲」に至るまで、ローザスにはそれが頻出する。

Photo: Akihito Abe

無音の中、続けられるダンス。それがダンサーが変わっても続けられた後、突如としてあの、「至上の愛」の最も印象的イントロのサックスソロが稲妻のように出現して、音楽ありのダンスが始まっていく。そう、まさに、この一瞬と、無音状態と音楽との世界が一変するような体験が、この作品のキモなのである。

長い時間の無音ダンスによって、私たちは自分の肉体とダンサーのそれがシンクロし、それこそ、地上で身体を動かし普通でハッピーな人間の喜びに満ち足りていたのに、とてつもない衝撃がやってきて、それを歓喜ととらえるか、人間にとっての厄災ととらえるか?!コルトレーンの凝縮した音楽世界は完全に閉じた美で、それを聞いたダンスの方はというと、実は音楽にチョイ乗りしたとしても、無音イントロの「地上の肉体」と本質的にはあまり変わることがなく非常にクール、だということにも気がついた。どこまでも非人情に飛翔し、かつ自由な音楽に滅私し、帰依するのではなく併走するダンス。この葛藤は、すなわち、人間が求めてやまない永遠で崇高な存在と、限りある人生を生きる人間との関係そのものではないか。

無音からコルトレーンへの変化の間で本質的に変わらないダンス、だが、そこに面白いアクセントを発見!何かと言えば、いわゆる、ジャズとダンスの関係においての歴史性。ボブ・フォッシーなどのコリオグラファーがミュージカル映画を中心に作り上げてきた、ダンススタイルからの借景である。そう、それらジャズダンスに共通なのは、ハッ!と視線を観客に据え、一瞬見栄を切るような大衆文化ならではの動き。強靱な縦糸の中に、こういった知的に光るセンスが入ってくる、遊び心や複雑性が入ると、観客にはそうと分からなくとも、心の中にタネを植え付けられてしまう。クラシック音楽、特に交響曲の名演のようにディテールは分からなくても、総体として心をガッツリつかまれてしまうことと同じ。私はダンスに関してシロウトだが、モノのわかったプロが観るともっと細部のアイディアが見つかることだろう。そういう意味で、ローザスの演目は何度も繰り返し観たい体験なのだ。

(「後篇」につづく)

INFORMATION

ローザス『A Love Supreme~至上の愛』

東京芸術劇場プレイハウス
2019年5月9 - 12日
振付:サルヴァ・サンチス、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル 
音楽:ジョン・コルトレーン<至上の愛> 

WRITER PROFILE

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湯山玲子 Reiko Yuyama

著述家、ディレクター。 興味: 著述家。出版、広告の分野でクリエイティブ・ディレクター、プランナー、プロデューサーとして活動。同時に評論、エッセイストとしても著作活動を行っており、特に女性誌等のメディアにおいては、コメンテーターとしての登場多数。現場主義をモットーに、クラブカルチャー、映画、音楽、食、ファッション等、文化全般を広くそしてディープに横断する独特の視点には、ファンが多い。 メディア、アート、表現文化ジャンルにおける、幅広いネットワークを生かして、近年は、PR、企業のコンサルティングも多く手がけている。著作に『女ひとり寿司』(幻冬舎文庫)、『クラブカルチャー!』(毎日新聞出版局)、『女装する女』(新潮新書)、『四十路越え!』(ワニブックス)など。自らが寿司を握るユニット「美人寿司」を主催し世界を回る。(有)ホウ71取締役。日本大学藝術学部文藝学科非常勤講師。 

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