パリ在住。編集者を経て、現在フリー・ジャーナリスト。映画をメインに、音楽、カルチャー全般で筆を振るう。Web映画コム、白水社の雑誌「ふらんす」で連載を手がける。著書に「映画で歩くパリ」(スペースシャワーネットワーク)。
もはや映画というよりアートである。
『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『メランコリア』など、一作ごとに世界を瞠目させるデンマークの鬼才、ラース・フォン・トリアーが連続殺人鬼の話を撮ると聞いて、人は何を思い浮かべるだろう。否、何を期待するだろう。他に類をみない過激なヴァイオレンスか、謎めいたサイコパスのスリルか、はたまたシュールなコメディか。
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ひとつだけ確かなのは『ハウス・ジャック・ビルト』は、もはや映画というよりアートである、ということ。なぜならトリアーの頭のなかにはまったくエンターテインメントの精神がないからだ。
「僕は映画を作るとき、観客のことは考えない。べつに驚かせてやろうと思っているわけでもない。ただ自分のアイディアをとことん突き詰めるために妥協をしないだけだ。表現の自由は僕にとって必要不可欠のものなんだ」と、彼は語る。
もちろん、だからといって本作がつまらないわけではない。いやそれどころか、デヴィッド・ボウイの「フェイム」に乗って次々に起こる残虐な事件は、ラストに近づくにつれショックを通り越して、驚嘆の様相を呈する。
かつてコッポラやガス・ヴァン・サント監督と組んで実力派二枚目の座を築いたマット・ディロンが、ここでは殺人鬼ジャックに扮する。彼は自称建築家で、いつか完全なる理想の家を建てることを夢見ている。その建材こそが、凡人の予想を遥かに超えたものなのだ。映画はこうして、5つの章にわたり12年に及ぶジャックの殺人を描く。
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強迫性障害の彼が殺人現場に何度も舞い戻って掃除をしたり、まったく計画性がないにも拘らず警察に捕まらない、といった描写が、思わず吹きだしてしまうほどにユーモラスであるのはトリアーらしい。
クライマックスではジャックの話し相手の地獄の主(?)ヴァージ(『ヒトラー〜最期の12日間〜』でヒトラーに扮したことで知られるブルーノ・ガンツ)が現れ、ジャックの心に揺さぶりをかける。「君の家はどうなった? 固有の材料で家を建てろ」
ヴァージの名前は、ダンテの『神曲』の地獄の案内人に由来するが、実際ここでも彼が導く世界は『神曲』そのものであり、ジャックとヴァージはドラクロワの絵画『ダンテの小舟』さながらの光景をも目の当たりにする。さらに二十世紀の殺人鬼の歴史を振り返るような、ヒトラーをはじめとする記録映像も挿入される。まさに文学、音楽、絵画のレファレンスを総動員してトリアーが描きだす地獄絵といったところだ。
トリアー自身、「カトリックでもなければ、地獄も信じていない」と語っていることを鑑みれば、本作は宗教的な意味合いを持っているわけではない。むしろ、ヒトラーに関するジョークが元でカンヌ映画祭を閉め出された(2011年『メランコリア』がカンヌに招待された際の記者会見での出来事)ばかりか、実際に刑罰を受けるリスクもあったトリアーが、世界への返答に、アーティストとして満身の力を振り絞って世の中に解き放ったのがこの一作であった、と言えるだろう。
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「芸術は人を傷つけることもあるとても自己中心的なおこないである、という点では、アーティストと殺人鬼は共通点があるかもしれない。そして僕自身は、人は誰でも殺人鬼になる可能性があると思っている」とトリアーは語っている。
そこまで意識しつつ、自己の創作にすべてを傾ける。それは好き嫌いこそ極端に分けるかもしれないが、かつて見たこともない壮絶なアートとして人々の脳裏に深く刻まれ、人間という不透明な存在について考えさせずにはおかない。トリアーの天才性は、そんな破壊力を発揮するのだ。