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EXHIBITION

至るところで 心を集めよ 立っていよ
Yutaka Kikutake Gallery 2022. 7.7 -8.6
SCAI PIRAMIDE 2022.7.21 – 9.17

Written by 中尾拓哉|2022.12.27

「至るところで を集めよ 立っていよ」SCAI PIRAMIDE(2022年)展示風景 撮影:表恒匡 協力:SCAI THE BATHHOUSE

 

解かれ、紡がれる、その線の上で

 

あるものの位置と位置が結びつくことによって立ち上がる時間と空間。約束されていたわけではないにもかかわらず、あたかも連結しているかのように出現するその時空間をどのような言葉で表現すればよいのか。それを広大な宇宙において時間と空間を異にしていながら、この地球というある観測点から結びつきをもって認識される「星座」に重ねてもよいかもしれない。ヴァルター・ベンヤミンが「コンステラツィオーン」、すなわち「星座」「配置」「状況」という意で(それらはいずれも時間と空間におけるある位置関係を指し示す)、ネガティブな夜空を背景に、ポジティブに輝く星々の集まりから、理念と事物の関係を星座と星の関係に等しいととらえたように。

「至るところで 心を集めよ 立っていよ」と、鋭い語勢で訴えかけてくる本展のタイトルは、ドイツ系ユダヤ人の詩人パウル・ツェランの詩「刻々」の一節から引かれている。この詩はツェランの生前、最後に刊行された『糸の太陽たち』(1968年)の冒頭に収められたものである。ツェランがテオドール・アドルノらによって1955年に編集されたベンヤミンの初の著作集を所有し、その思想に早くから接していたことは興味深い。この詩人の蔵書であるベンヤミン著作集第1巻『ドイツ悲劇の根源』の「認識論的序章」には、以下のような下線が引かれていた。

 

諸天体の調和が互いに触れ合うことのない星々の運行に基づいているように、叡智界の存立も純粋な本質相互の破棄できない隔たりに基づいている。それぞれの理念は恒星(太陽)であり、理念相互の関係は恒星相互の関係に等しい。そのようなさまざまの真実の響き合う関係が真理なのだ。[1]

 

ツェラン研究者の関口裕昭はベンヤミンの鍵概念である「コンステラツィオーン(星座=配置)」は、ツェランの詩学の本質を指摘しているものとして読むことが可能であるとする。すなわち「〔ツェランの〕一詩篇における各詩語、一詩集における各詩は、ある一定の「隔たり」をもちながら、恒星相互の関係のように「真実の鳴り響く関係」をもって配置されているのである」[2]と。ツェランの詩である「至るところで 心を集めよ 立っていよ」という言葉もまた、ある「隔たり」を結ぶ対象との相互関係を示しているのではないか。そして、本展ではそうした夜空に輝く星々を星座として結びつけるために立ち上げられるような不可視の線=糸にこそ、焦点があてられている。

本展がSCAI PIRAMIDE(SCAI)(7月21日~9月17日)とYutaka Kikutake Gallery(YKG)(7月7日~8月6日)の二会場で開催されていることは特筆すべきであろうか。二つの会場は同じビル内ではあるが、階が異なり、かつ位置的には上下ではなく、左右(あるいは前後)に離れている。したがって、YKGから見上げればSCAIが、SCAIから見下ろせばYKGが垣間見える位置関係にある。さらに、会期が異なっていたため、二つの場所のつながりを鑑賞するためには、時間的重なりに立ち会わなければならない。実際に、YKG、もしくはSCAIしか開場されていない時期があり、どちらかのみでも鑑賞が可能であった。これは制限であろうか、あるいは条件であろうか、それとも。

 

「至るところで を集めよ 立っていよ」SCAI PIRAMIDE(2022年)展示風景 撮影:表恒匡  協力:SCAI THE BATHHOUSE

潘逸舟《My Star》2005、シングルチャンネルビデオ、サウンド、5分33秒 ©Ishu Han 「至るところで を集めよ 立っていよ」SCAI PIRAMIDE(2022年)展示風景 撮影:表恒匡  協力:SCAI THE BATHHOUSE

 

本展の連続性を追ってみよう。手がかりとなるのはステートメントにも記される、ジェームス・リー・バイヤースの《The Figure of Question(問われる形状)- The Star Book》(1990年)の「星形」と、潘逸舟の《My Star》(2005年)の「星形」の結びつきである。前者は神秘思想や瞑想体験から様式美を導き出したバイヤースにおける人間の形の象徴として、後者は上海から青森に移住した時期の潘が所有物を袋から取り出し、自らの衣服を脱ぎながら、それらを並べ、つくり出した線(中国の国旗に浮かぶ五芒星を思わせる)として表されている。

 

「至るところで 心を集めよ 立っていよ」SCAI PIRAMIDE(2022年)展示風景 撮影:表恒匡 協力:SCAI THE BATHHOUSE

碓井ゆい《空の名前》2013年、ミクストメディア 「至るところで 心を集めよ 立っていよ」SCAI PIRAMIDE(2022年)展示風景 撮影:表恒匡 協力:SCAI THE BATHHOUSE

 

こうした結びつきは他作品にも広がっていく。佐々木健が描き出した油彩画《テーブルクロス(祖母と母と2人の叔母)》(2013年)における女性たちによる共同の刺繍と、アピチャッポン・ウィーラセタクンの映像作品《Cactus River》(2012年)に(早回しで)映し出された、「名前を変えることで幸せになれる」というタイの伝承にならい、「水(Nach)」という名前を得た女性が編み物をする姿。その名前を得た女性の存在と、碓井ゆいが太平洋戦争中に旧日本軍の「従軍慰安婦」とされた女性たちが慰安所で名付けられた源氏名をラベリングした《空(から)の名前》(2013年)という無数の消費されたガラスボトルが接続される(さらに、そこから想起された、かつて別の場所で見た、碓井の縫い物の作品《要求と抵抗》(2019年)までもが記憶の中で連なっていく)。そして、潘が使用していた辞書の束である《ことばを縫う》(2022年)へと周回する(上海に住む潘の祖母の台所仕事や祖母と話すために中国語を学ぶ潘の息子の様子が音声として流れる)。以上の連結もまた展示会場の配置において大きな星形を形成するようである。

これらの作品は異なる時間と空間の中で、別々の問題系を出発点にして表現された作品群ではある。しかし、潘における上海から青森に移住した時期に、自らのアイデンティティを問うように表された五芒星と、バイヤースにおける人間が両手両足を開いて立つ、あるいは寝転ぶという形を透過する星形が、いずれも人間の身体と表現の深層で重なり合っているように、編み物や日常を紡ぐ行為もまた同じ位相、すなわち個々の作品がやどす歴史的・社会的な問題系の不可視の糸を連結していくようにすら感じる。

 

「至るところで 心を集めよ 立っていよ」Yutaka Kikutake Gallery(2022年)展示風景 撮影:坂本理 協力:Yutaka Kikutake Gallery

古橋まどか《To undebecome》2022、白土 「至るところで 心を集めよ 立っていよ」Yutaka Kikutake Gallery(2022年)展示風景 撮影:坂本理 協力:Yutaka Kikutake Gallery

関川航平《しあわせな日々》(部分) 2022、 イチジクの鉢植え、ステンレス、グラファイト、パフォーマンス 「至るところで 心を集めよ 立っていよ」Yutaka Kikutake Gallery(2022年)展示風景 撮影:坂本理 協力:Yutaka Kikutake Gallery

 

このような「星座=配置」はYKGで展示をしていた、関川航平、中島吏英、古橋まどかの作品においても絡み合う。SCAIからYKGをのぞくと、関川が水をあげていたイチジクの鉢植え、中島によるタワシやスポンジなどからつくられたサウンド・オブジェ、そして古橋が母の死と向き合い、自らの体重と同じ重さの土を自宅の庭から掘り起こし、握った形で焼かれたオブジェがガラス越しに見える。ある時間と空間において、古橋が握った土や写真で撮影された自宅の庭の植物と、中島が日毎に追加した動く日用品が、関川が会場に毎日通いながら植木に水をやり「光 を受けた葉が 吸いあげた水 を放ち 鉢の土を乾かし 私 は水を与えた 今日 が 柵になる」と展示会場の壁に、文字通り「柵」のように書き記した縦書きの文と結びつき、バイヤースの星を収めたケースの垂直性に接続される。

もしかしたら、こうした「形」や「行為」の位相で展覧会をなぞることは、今日において避けられる傾向にあるのかもしれない。けれども、本展において、情報としての結びつきに終始するのではなく、むしろ造形や日々の営為に解体される可能性をもちながらも、別々の時間と空間における異なる情報のレベルから同じ形態の発生を重ねるこれらの大きな連環は、個別的な問題系と人類が見つめ続けている古層を星座のように浮かび上がらせていた。

 

アピチャッポン・ウィーラセタクン《Cactus River》2012、10分9秒 「至るところで を集めよ 立っていよ」SCAI PIRAMIDE(2022年)展示風景 撮影:表恒匡  協力:SCAI THE BATHHOUSE

 

川辺という川に沿って広がる陸地ではなく、その線の中、すなわちセーヌ川へと投身自殺をしたパウル・ツェランの詩「刻々」の「至るところで 心を集めよ 立っていよ」という文には、「おまえはのがれ去ることなく」[3]という節がある。《Cactus River》では、女性がメコン川の川辺を歩く姿が減速化された一コマ一コマの中に(スローモーションで)映し出されていた。川辺でスケートボードをしている男性が2段のステアでバックサイド180をメイクし損ねる。正確には着地に失敗するが、絶妙なバランスで体勢を立て直し、転ばない。その様子を女性が見つめている。いや、そのように見えるカットがスローモーションでつなげられるが、実際に見ていたのかは判然としない。

本展に充満しているのは、作品という見つめればそこに在る、暗闇に浮かび上がる星々のみならず、むしろそれらを結びつけている不可視の線の上で、よろめき、ゆらぐ人間の姿であるように思われてならない。さまざまな問題系の情報体として輝く星々は、複数の別の時間、別の空間から「刻々」と「至るところで」連結され、不確かな世界の中で「正気を保つ」あるいは「体勢を保つ」ために張り巡らされたネットワークとして、解かれ、紡がれる、その線の上で「心を集めよ 立っていよ」と響き合うのだ。

 

[1] 関口裕昭『パウル・ツェランとユダヤの傷――《間テクスト性》研究』慶應義塾大学出版会、2011年、128頁。

[2] 同上。

[3] 原語は「unentworden」という造語。英語では「undebecome」と直訳されることがある。パウル・ツェラン『絲の太陽たち』飯吉光夫訳、ビブロス、1997年、10頁。

INFORMATION

至るところで 心を集めよ 立っていよ

Yutaka Kikutake Gallery 2022年7月7日 - 8月6日
公式サイト

SCAI PIRAMIDE 2022年7月21日 - 9月17日
公式サイト

WRITER PROFILE

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中尾拓哉 Takuya Nakao

美術評論家/芸術学。博士(芸術)。近現代芸術に関する評論を執筆。特に、マルセル・デュシャンが没頭したチェスをテーマに、生活(あるいは非芸術)と制作の結びつきについて探求している。著書に『マルセル・デュシャンとチェス』(平凡社、2017年)。編著書に『スポーツ/アート』(森話社、2020年)。キュレーションに「メディウムとディメンション:Liminal」(柿の木荘、東京、2022年)など。現在、女子美術大学、多摩美術大学、東京藝術大学、東京工業大学、立教大学非常勤講師。https://nakaotakuya.com

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