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INTERVIEW

人間の果たせぬ夢、「永遠」を求める2つの物語。

Written by 鈴木芳雄|2020.1.29

At The Hawk's Well (Hiroshi Sugimoto), Tetsunojo Kanze, Hugo Marchand ©Ann Ray

 

2019年秋、杉本博司が演出を手掛け小田原文化財団が制作した2つの舞台作品が相次いで上演された。9月にはパリのオペラ座にてイェイツ作『鷹の井戸』を、10月にはニューヨークのリンカーンセンターで『曾根崎心中』を上演。コンテンポラリーバレエと文楽、まったく違うアプローチでありながら、その作品世界の深淵にある死生観の表現に取り組んだ杉本に、現地で2作品を観劇した美術ジャーナリスト・鈴木芳雄がインタビューをおこなった。

 

 

「ライフワークの一つとして、私が海景をずっと撮ってきたのは、生とはなにか、死とはなにかを探求するためでもあるんです。生命が生まれ、古代人から我々までの人間がずっと見つめてきた同じ景色。そんな海景が多くの人の共感を呼ぶということを発見したとき、私にとっては驚きでした。そして、それが現代美術として受け入れてもらえているということ。そこにはなにか力があるんだと素直に感じることができました。」

 

Hiroshi Sugimoto Caribbean Sea, Jamaica, 1980 / ©Hiroshi Sugimoto

 

杉本博司は、言葉を続ける。
「時間の観念というか、生死の意識の発生とか、そういうことをずっと探求の対象としてきました。死とはなにかと考えていくと、それは自分が生まれてきたのと同じような感覚なのではないかとも思えます。いつの間にか自分に心が芽生えていることに気づいて、あ、自分っているんだ、とある時ある地点で意識したわけです。それと同じような感覚で、あ、もう自分は消えていくんだなという感覚を持つのかもしれない。そういう心の準備というものがだんだん高齢になるにつれて出てくるんじゃないかと感じています。
だから、生まれてきたように等しく死んでいくんだなっていう、なんかそれが自然の一部なのだっていうような。若いときは死というものをまったく理解できない怖いものだったんですけど、死はけっこう優しいものなのかもしれない。年を取ると体はどんどん弱っていくし、ずっと生きていたとしたら肉体的な苦しみの連続に入っていくでしょう。目は霞むし、歯は抜けるし、体は思うようには動かない。
そういう生死への意識と『鷹の井戸』や『曾根崎心中』をやっているというのは全部関連しているわけです。」

杉本博司は昨秋、2つの舞台で演出を手がけた。9月にパリのオペラ座ガルニエ宮の招聘でウィリアム・バトラー・イェイツ作『鷹の井戸』を、そして10月にはニューヨークのリンカーンセンター・ローズシアターで『曾根崎心中』を。『曾根崎心中』は同劇場主催の芸術祭「ホワイト・ライト・フェスティバル」オープニング公演の一つで、国際交流基金が日本の文化をアメリカに向けて発信する取り組みである「Japan 2019」の公式企画だった。

 

At the Hawk’s Well (H.Sugimoto) Hugo Marchand – Photo julien Benhamou

 

昨年2019年はパリ、オペラ座の源流ともいえるフランス王立音楽アカデミーの350周年だった。設立はルイ14世(太陽王)の時代ということになる。記念すべき年の秋シーズンの初演目の一つが『鷹の井戸』だった。神秘主義者であり、ケルトの神話や伝説に惹かれていた詩人イェイツが今からおよそ100年前、日本の能にインスピレーションを得て書いたバレエ作品。日本の能という演劇が死者の霊を舞台に呼び戻すという幻想劇であることに彼は強い興味を惹かれたのだろう。

Q: あなたにとって能とは何ですか。
A: 時間の流動化です。
Q: といいますと。
A: 時間は過去から未来への一方通行ですが、
能は時間から自由なのです。
Q: タイムマシンですね。
A: 夢がその乗りものとして機能します。
夢幻能と言われています。
(杉本博司『苔のむすまで』新潮社 2005年)

 

At The Hawk’s Well (Hiroshi Sugimoto) ©Ann Ray

 

アメリカ人の東洋美術史家、アーネスト・フェノロサの草稿で能楽を研究したイェイツが執筆し、1916年にロンドンで舞踊劇として上演された『鷹の井戸』はその後、能楽研究者の横道萬里雄によって、1949年、日本で新作能『鷹の泉』として発表され、1967年に観世寿夫主演の新作能『鷹姫』に発展。これが横道の代表作となった。

ケルトの王子クーフリンは絶海の孤島の山にある涸井戸にやってくる。そこに湧く水を飲めば永遠の命が与えられると聞いたからだ。しかしそこは鷹の精である女に守られていて、さらにもう一人、老人もいた。聞けばその老人は50年もの間、水が湧くのを待っているという。その間、3度、水が湧いたことがあったがそのたびに鷹が舞い、そのとき眠りに落ち、水を飲むことは叶わなかった。そんな話を聞いているとき、まさに鷹が叫びを上げ、舞い始めた。若者は鷹の女に魅せられ、同時に眠りに落ち、彼も水を飲むことができなかった。

そんな物語を杉本はどう描いたか。舞台装置として特徴的なのは舞台奥から客席に向かって白木の板で作られた花道のようなT字型の通路が作られていることである。これは能の橋掛かりにあたるものであろう。舞台の背景は半円状にアールがついていて、映像が投影されるようになっている。絶海の孤島の物語ということで、杉本は当初、「海景」を投影することも考えたようだが、それよりも新しい作品シリーズ「オプティクス」からの引用が行われている。「オプティクス」はプリズムの屈折によって分散した色を捉えたもの。個々を見れば赤、青などの色だがもとは太陽の光である。

絶海の孤島にクーフリンが訪れたときは空と海を思わせる青だった。老人が井戸について話をする場面である。やがて、鷹の精である女が激しく踊る場面では赤になる。感情が昂ぶる色だ。そして、白によって時間は静止する。訪れる静謐。そこでようやく能楽師(観世銕之丞、役替わりとして梅若紀彰)が登場し、座り込んでいる若者に声をかける。「いかにクーフリン、さても得たるか泉の水……」。杖を放り、去っていく。若者は杖を手にして立ち上がるけれども、もう時間は戻らない。すべては夢の中の出来事であったかのようだ。ただ、そこに杖は残るけれども。

全編を通し、音楽を担当したアーティスト、池田亮司の果たした役割は大きい。各場面の特徴と連続性を表現する重要な要素が音楽である。杉本は語る。
「シーン・バイ・シーンという考え方をしました。このシーンはこういうふうに誰が出てきて、ここでは群舞とか。そういう基本的な台本というか脚本は、最初に私の方で何十枚という絵にして紙に描いておくわけです。コマを4つくらいにして、このシーンがこうなって、ここにクーフリンがいて、老人が出てきて、井戸があって、そしてクライマックスでは、すごく強い光が井戸から出てくるというイメージを伝えるためのもの。そうすると、こういうライトがある、とか、上から光を落とすだけで下から立ち上がるように見えるとか、そういった技術的なことを引き出すためのものです。“決め”のシーンがどう運んでいって、どういうふうに光があるかという基本は描いてあって、それをもとに池田亮司は音楽を作っていくわけだし、振付のアレッシオ・シルヴェストリンもそのドローイングを持っていて、細かくダイヤグラムに組み立てていく。」

 

At The Hawk’s Well (Hiroshi Sugimoto), Tetsunojo Kanze, Hugo Marchand ©Ann Ray

 

ファッションデザイナーのリック・オウエンスが衣裳を担当したことも話題になった。オウエンスは、ストーリーを読み、池田亮司の音楽を聴き、杉本の演出の意図を理解し、その上に自身がファッションで創造してきた世界を重ね合わせた。この演劇に関わった各人がつくるさまざまな要素が織り成す表現が自然に集約したものとしての衣装である、とも見る側に伝わってくる。 衣裳のイメージソースの一つはジョン・チェンバレンの彫刻であるという。なるほど身体を拡張したがっている形のように見える。能楽師と同じ舞台上にあってもこの衣裳に違和感はない。

身長よりも長い両翼を持つ、全身が赤い鷹の精の女が現れるとき、照明が赤になる。一転、暗黒が 効果的に使われる。生きること、果てしない生を得ることへの夢、執着とそして死の誘惑。女は舞台狭しと舞ったあと、翼を広げて、飛び立ち、姿を消していってしまう。

杉本がこのパリのオペラ350周年の演目を手掛けることになったいきさつを簡単にまとめると、2013年にパリ市立劇場で『杉本文楽 曾根崎心中』が上演されたとき、当時、次期パリ・オペラ座の芸術監督に内定していたバンジャマン・ミルピエが公演を見て、翌日にオファーをしてきたのだという。オペラ座でなにか一緒にやりたいと。その後、何度かミーティングを重ねることになるが、杉本としては当初から、オペラ座でやるなら『鷹の井戸』をやろうと提案をしていたという。
「フェノロサの草稿をエズラ・パウンドが所有していて、その縁でイェイツが見て、原作がつくられたことに奇縁を感じるし、2005年、森美術館の個展で『鷹姫』もやっていたので。そのときはオリジナルの能バージョンだったけれど、『鷹の井戸』の完成に貢献した伊藤道郎が踊った初演を再現しようという意図でした。それで今度はパリで、オペラ座のダンサーでそれを再現するのは面白いのではないかと。」

その後、芸術監督が現在のオレリー・デュポンに交代するなどの経緯もあったが、今回の実現に至ったというわけである。

さて、件の『杉本文楽 曾根崎心中』だが、パリのオペラ座『鷹の井戸』楽日から数日後の2019年10月19日、ニューヨーク・リンカーンセンターのローズシアターで上演が始まった。これは前述のとおり、芸術祭「ホワイト・ライト・フェスティバル」オープニング公演の一つで、国際交流基金による「Japan 2019」の公式企画である。

 

©小野祐次 / 写真提供:国際交流基金

 

2011年に初演が行われた杉本文楽。いくつもの特徴的な点がある。闇に包まれた舞台に人形が浮かび上がる。通常の文楽とは異なり、人形遣いの気配は徹底的に消されている。背景も書き割り全体は見えない。 神社の鳥居や店先の暖簾、橋の欄干などが、その場面の場所や状況を象徴的に表すものとして照らし出されるだけだ。

1703(元禄16)年に大坂西成郡曾根崎村の露天神の森で情死した事件をもとに近松門左衛門が書いたのが『曾根崎心中』である。将来を誓いあった、大坂堂島新地天満屋の遊女お初と内本町醤油商平野屋の手代の徳兵衛。意に染まない結婚を断るために必要だった金を、友人の九平次に罪を着せられた上、騙し取られた徳兵衛は身の潔白を証明し、あの世で添い遂げたいと願う。そのため2人は死を選ぶ。物語は「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結ばれる美談である。

 

©小野祐次 / 写真提供:国際交流基金

 

パリの『鷹の井戸』は永遠の命を得ることへの人間の執着を描き、対照的にニューヨークの『曾根崎心中』は死を選ぶことで永遠の愛が叶えられたのであるとする物語。それはまさに対極のようでいて、実は人間の果たせぬ主題である、永遠を得ようとする物語である。

根本的な宗教観の違いは決定的にあるにしても、神も仏も人間が作った概念かもしれない。人の姿に、人間の完璧な姿に似せて神は作られている。神に召されるということは人間にとってどういうことなのか、仏に迎え入れられた場所は行き着くべきところなのだろうか。そんな大きなテーマを昨秋、ほぼ同時期に上演された2つの杉本演出作品は描こうとしているように見えた。

「アプローチが違うだけで、同じものを目指しているような気もする。」(杉本)

この2つの舞台に限らない。杉本の芸術は人間の叶わぬ夢を作品に、目に見えるものにしてきたともいえる。時間、空間を超えて神の目のように生物たちのさまざまな場面を見せる「ジオラマ」も。物語や歴史を時間の尺から解き放った「劇場」。そして、古代から数え切れない人数の人々が見た同じ風景「海景」。いつも静謐の場面を見せる杉本の仕事は人間の意識の発生への飽くなき探求だったのだということをあらためて思い知らされたのだった。

 

Hiroshi Sugimoto Teatro Carignano, Torino, 2016 / ©Hiroshi Sugimoto

 

 

 

(左上から)3月21日より開催予定の京都市京セラ美術館開館記念展「杉本博司 瑠璃の浄土」展の準備中。

『鷹の井戸』舞台芸術の初期プラン。照明位置を付箋のような紙片で指し示す杉本氏。

コレクションの古美術をしつらえた床の間にて。

 

 

主な参考文献及び資料:

・杉本博司『苔のむすまで』新潮社、2005年

・松岡正剛『フラジャイル―弱さからの出発』筑摩書房、1995年

・ウィリアム・バトラー・イエーツ、松村みね子 訳『鷹の井戸』角川文庫、1953年

・小崎哲哉「杉本博司の『鷹の井戸』」『婦人画報』2020年1月号所載

・大村真理子「オペラ・ガルニエ、『鷹の井戸』で杉本博司の世界を堪能。」FIGARO.jp記事

WRITER PROFILE

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鈴木芳雄 Yoshio Suzuki

編集者/美術ジャーナリスト。雑誌ブルータス元・副編集長。担当した特集に「杉本博司を知っていますか?」「若冲を見たか?」「国宝って何?」「緊急特集 井上雄彦」など。共編著に『カルティエ、時の結晶』『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。明治学院大学、愛知県立芸術大学非常勤講師。東京都庭園美術館外部評価委員。

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