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OUT AND ABOUT

小田原文化財団 江之浦測候所 現代アートプロジェクト第2弾
クリスチャン・マークレー《Found in Odawara》
2021.11.27, 28
小田原文化財団 江之浦測候所

Written by 毛利悠子|2022.1.28

photo: Timothee Lambrecq ©Odawara Art Foundation 

11月27日、28日の2日間、クリスチャン・マークレーのサウンド・パフォーマンス「Found in Odawara」が開催された。東京都現代美術館の個展「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」に合わせて、コロナ禍の隔離プログラムを介してアーティスト本人が来日したことで実現した関連イベントだ。

その前に私が小田原の江之浦測候所を訪れたのは2019年11月1日、ティノ・セーガルのプロジェクトだった。この2年のうちに、江之浦は杉本博司によってさまざまな手が加えられていた。駐車場の奥に「甘橘山」と書かれた立て看板、その奥のアプローチを登っていくとStone Ageというカフェがあり、敷地内で栽培された柑橘類のメニューを提供している。偶然会うひさびさの知人とともにホットレモネードを楽しみながら海を眺めると、青空の西側から雨雲がせめてきて、沖のほうで雨がふっているのがわかった。

 

photo: Timothee Lambrecq ©Odawara Art Foundation 

やがて観客は「夏至光遥拝100メートルギャラリー」に案内された。その名のとおり、幅3メートル程度、長さ100メートルの長細い建築物だ。建物の特性を活かして並べられた長テーブルに、絵巻物状になったマークレーの《Manga Scroll》が広げられてある。これは東京都現代美術館の展覧会「トランスレーティング[翻訳する]」でも観ることができる、漫画の擬音部分を切り貼りしたコラージュであり、ボーカリストのためのグラフィック・スコアでもある。観客は作品に対面し、壁に沿うように着席する。私はスコアのどちら側も見通しがよさそうなちょうど真ん中あたりで、壁に設置された杉本博司の《海景》に触れないよう、立って鑑賞することにした。《Manga Scroll》越しの窓からは紅葉する山と海が広がる。すでに雨雲は遠くのほうへ流れていた。

観客もパフォーマンスの一部として私語や撮影、拍手などを控える旨、主催者からアナウンスがあり、まもなく、声のアーティストである山崎阿弥が登場した。ギャラリーの奥に到着すると一呼吸をおき、パフォーマンスがはじまる。山崎はマイクやスピーカーをいっさい使わず、声帯や口、腕や指先、たまに胸や肩を叩きながら、スコアを表現していく。漫画から切り抜かれた擬音は、爆発音やエンジン音、水滴といった具体音だけでなく、状況がよくわからない音も貼り付けられていて、山崎の声もときに人間がだすものとは思えない音を空間に響かせていく。

ふと、初めて蓄音機で音楽を聴いた体験を思い出す。レコード針から伝わる振動を、管を通って増幅させるアコースティックな蓄音機に夢中になったことがあった。それは、これまで私が触れてきた電気を介した音楽メディアとはまったく異なる経験だった。音の大きさ、重厚さ、深さ、さらにそこに紛れてくるノイズには、アナログならではの、不安定な、だがなんともいえない魅力があった。SP盤の片面を再生するには、まずゼンマイを巻く必要がある。レコード針には鋭いものから鉛筆の芯より太いものまであって、ホチキスの芯のケースのような箱に50本ほど入っている。太い針で再生すると、盤の溝との接触面が増えるぶん、単純に音が大きくなる。シャープで繊細な形をした針で再生すると、繊細で滑らかな音がする。針はちょっと再生しただけで摩耗してしまうから、数曲聴いたら取り替える必要がある。音量のボリューム調整は、毛布で蓄音機自体をくるむしかない。それはデジタル機器に囲まれた身体経験とはまったく違うもので、レコードの片面5分を聴くにも、蓄音機の前で思わず正座してしまう。Bluetoothで音源を流しっぱなしにして寝過ごすなんてことがあってはならない。

およそ20メートルのグラフィック・スコアを、ノンストップ、ノンアンプリファイのまま全身を使って一気に音に変換していく山崎のパフォーマンス。それは、蓄音機のレコード針に重なって見えた。針(演者)とレコード盤(スコア)との接触面積のぶん、その音の質感と強弱は変化する。そして再生するにつれ、摩耗していく。摩耗は美しい。それは自然な変化の証だ。

実は、パフォーマンスがはじまる直前にすれちがった山崎から、本番前すでに録音用にフルコーラスを演奏したばかりだと聞いていた。あのパフォーマンスを1日で2回もこなすとは、その並大抵でない針のクオリティ(体力)にただただ驚く。緊張感に満ちた、圧巻のパフォーマンスだった。

 

photo: Timothee Lambrecq ©Odawara Art Foundation 

山崎のパフォーマンスが終わると、美術館から外にでるよう促された。閉じられた「明月門」の前で待っていると、太鼓のような音が門中から漏れてくる。「赤穂浪士の討ち入りみたいだな……」たまたま隣にいた杉本さんがそう呟いた。やがてクリスチャン・マークレーが、建具が擦れる音とともに門を開け、観衆を中に招き入れる。石の能舞台では、大友良英、山川冬樹のパフォーマンスがすでにはじまっていた。壊れた自転車、タライ、大きな地球儀、金属の棒などのファウンド・オブジェクトが雑然と置いてあり、それらを叩いたり擦ったりして音をだしている。舞台の下にある「渡月橋礎石」に寄りかかるように立つ鈴木昭男は、窪みに溜まった雨水に長い管の口を出し入れしていた。管の中に水が入ると空気量が変わってチャポンという音が響き、その残響が少しだけ歪む。

開放的な空間では、マイクやスピーカーを使用せずとも、ささやかな音の変化が伝わってくる。一つ一つのパフォーマンスに対し、思わず感動の声をあげたくなるが、小さく発されるアコースティックな音の重要性にこのあたりから気づきはじめた。

photo: Changsu ©Odawara Art Foundation 

突然、マークレーがプラスチック製の直径120センチほどの大きな地球儀を舞台から投げ放ち、砂敷のうえでそれは見事に砕けて割れた。私たちは突然のハプニングに驚いたが、彼はそれに動じることなく、空いた手を砂熊手に持ちかえ、砂敷に散らばった地球儀の破片に漣(さざなみ)や渦紋(うずもん)などの砂紋を掻きわけ、枯山水を即興的に浮かびあがらせた。割れた地球儀の破片が、枯山水という小宇宙の島々へと変換される──。この瞬間こそ、今回のパフォーマンスの白眉のひとつであり、マークレーの「翻訳(トランスレーティング)」の真骨頂だったと言えよう。

「トランスレーティング[翻訳する]」展をご覧になればわかるように、マークレーがこれまで制作してきた作品群は、“目にみえない音楽を目にみえるイメージに翻訳する”などという単純な話ではもちろんない。彼が制作しているものを「翻訳」という言葉を通して捉えるのであれば、それはむしろ“音楽(あるいは現象)が表象されているかに見えるイメージ”から“(たとえば音楽的な)意味性を剥ぎ取ったときにイメージが実際に表象している何か”への翻訳なのではないか。それはむしろ──手垢の付きすぎた参照項ではあるが──ベンヤミンが「翻訳者の使命」で語った“器の断片の比喩”を思い出させる。

photo: Timothee Lambrecq ©Odawara Art Foundation 

「ひとつの器の破片が組み合せられるためには、二つの破片は微細な点にいたるまで合致しなければならないが、その二つが同じ形である必要はないように、翻訳は、原作の意味におのれを似せるのではなくて、むしろ愛を籠めて微細な細部にいたるまで原作の言い方を翻訳の言語のなかに形成し、そうすることによってその二つが、ひとつの器の破片のように、ひとつのより大いなる言語の破片として認識されるのでなければならない。まさしくそれゆえに翻訳はなにかを伝達するという意図を、また意味を、極端なまでに度外視しなければならない」(ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」円子修平訳、『ボードレール──ヴァルター・ベンヤミン著作集6[新編増補]』晶文社より)

この場合、マークレーが行っているのは、「翻訳者の使命」においてベンヤミンが念頭に置いている“徹底した逐語訳”──ヘルダーリンがギリシア悲劇の詩人・ソフォクレスの翻訳において成した──であり、そうであれば、彼の作品に再帰性=自己言及がともなうのも、また、できあがった作品に奇妙な即物性が宿るのも、当然のことだろう。

割れた地球儀が枯山水の小宇宙へと変換されたパフォーマンスは、コロナ禍でバラバラになった世界があくまでバラバラのまま、ローカルなまま、新たに生まれ直すだろう関係性を予感させるものであり、観ていてなんだか気持ちがよかった。

photo: Timothee Lambrecq ©Odawara Art Foundation 

石舞台から「光学硝子舞台」、「冬至光遥拝隧道」を通りぬけ、観客は竹林へと誘導される。演者が竹林が繁る崖の上から小石や大きなペットボトルなどを投げ込み、あるいは叩くことで、竹林がマリンバのように響きはじめる。

山崎は、グラフィック・スコアを介し、自分の身体をレコード針にして世の中に溢れる音を表現した。同じように、マークレーや大友が自転車や和傘など丸い形のものを触っていると、ターンテーブルやレコード盤に見えてくる。鈴木や山川が木の枝や鉄の棒を持っていると、レコード針に見えてくる。

photo: Timothee Lambrecq ©Odawara Art Foundation 

photo: Timothee Lambrecq ©Odawara Art Foundation 

photo: Timothee Lambrecq ©Odawara Art Foundation 

そういえば「明月門」で目に入った小田原文化財団の紋章も、円と三角の幾何学の構成だった。水平線は直線に見えるが実は大きな円弧の一部であり、三角は2点をもって3点目の距離を測るもの、との思いが込められているという。であれば、地球の丸さもレコードなのかもしれない。そこでは、形がそれぞれ違う無数の針が、おのおのの音の溝を掻いているのだ。観客であったはずの自分の足、皮膚、呼吸もいつかしらレコードの針となり、環境を再生していく感覚になっていた。

 

photo: Changsu ©Odawara Art Foundation 

マークレーに導かれるまま竹林を一周し、私たちは最後にまた「夏至光遥拝100メートルギャラリー」に戻ってきた。巻上公一が演奏する《No!》のために、ギャラリー最奥にスピーカーと舞台が設営されてある。観客はギャラリーに沿うように入口から舞台にかけて置かれたベンチに思い思いに座る。すっかりレコード針になりきって、耳が繊細になった状態で観る、この日初めてのアンプリファイされたパフォーマンスだったから、目が覚めるようだった。《No!》もまたマークレーのグラフィック・スコアなのだが、巻上が漫画のワンシーンを全身全霊で表現しているのを観て、おもしろくて笑いがとまらない。マイクとスピーカー越しに放たれた音像にゆるがされるようにして、私たちは一気に現実世界に戻ってきたのだった。

 ※巻上のパフォーマンスは1日目と2日目の客席の構成は少し違った。本稿では2日目の状況を記した。

 

INFORMATION

クリスチャン・マークレー《Found in Odawara》

日時:2021年11月27日、28日
会場:小田原文化財団 江之浦測候所

「クリスチャン・マークレー Found in Odawara」記録映像上映会
日時:2022年2月5日(土)、6日(日)10:30/ 13:00/ 15:30
会場:東京都現代美術館 地下2階 講堂

WRITER PROFILE

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毛利悠子 Yuko Mohri

1980年生まれ。美術家。 コンポジション(構築)へのアプローチではなく、環境などの諸条件によって変化してゆく「事象」にフォーカスするインスタレーションやスカルプチャーを制作。近年の個展に「Parade(a Drip, a Drop, the End of the Tale)」(ジャパンハウス サンパウロ、2021年)、「SP. by yuko mohri」(Ginza Sony Park、東京、2020年)、「Voluta」(カムデン・アーツ・センター、ロンドン、2018年)があるほか、「第34回サンパウロ・ビエンナーレ」(サンパウロ)、「グラスゴー・インターナショナル2021」(グラスゴー)、「アジア・パシフィック・トライエニアル2018」(ブリスベン)、「リヨン・ビエンナーレ2017」(リヨン)など国内外の展覧会に参加。2015年、アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)のグランティとして渡米。2022年、アンスティチュ・フランセ シテ・アンテルナショナル・デ・ザール2020 ローリエットとして渡仏予定。 https://www.mohrizm.net/

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