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日本現代アートサミット2019 「トランス/ナショナル:グローバル化以降の現代美術を語る」
公開キーノートレクチャー(1)「アメリカにおける日本美術:キュレーター、研究者、アクティヴィストの我が取り組みをふりかえって」:アレクサンドラ・モンロー氏
2019.3.19 六本木アカデミーヒルズ

Written by 黒岩朋子|2019.10.24

photo by Ujin Matsuo

 日本現代アートサミット2019

「トランス/ナショナル:グローバル化以降の現代美術を語る」

公開キーノートレクチャー(1):アレクサンドラ・モンロー氏(ソロモン・R・グッゲンハイム美術館アジア美術部門サムソン上級キュレーター/グローバル美術部門上級アドバイザー、グッゲンハイム・アブダビ・プロジェクトキュレトリアル部門暫定ディレクター)

 

「アメリカにおける日本美術:キュレーター、研究者、アクティヴィストの我が取り組みをふりかえって」

「日本現代アートサミット2019」は、近年国際的に日本の現代アートの存在感が相対的に希薄化していることを受けて、その理解を高めることを目的に、文化庁が2018年度に立ち上げたアートプラットフォーム事業が推進するプログラムである。国内外のキュレーターや研究者たちを招いた招待制のワークショップを通して、国際的な共同研究を促進するような現代アートのネットワーク構築を目指しており、5カ年の継続開催を視野に入れている。

初年度のテーマは「トランス/ナショナル:グローバル化以降の現代美術を語る」。サミット期間中に実施された「キーノートレクチャー」は一般公開され、1980年代以降に欧米で話題となった日本に関する現代アート展を企画したアレクサンドラ・モンロー氏とデヴィッド・エリオット氏を招き、それぞれがいかに日本の現代アートを分析し、現地の観客に提示したのかを再訪した。21世紀の今日において、現代アートを語るためのヒントを探る。

モンロー氏は、日本の文化の振興に貢献、又は、日本文化の海外発信、国際文化交流に貢献した人の功績をたたえ表彰する平成30年度「文化庁長官表彰」を受賞したばかり。冒頭の日本語による挨拶では、受賞の喜びのあと、1980年代半ばに戦後日本の前衛美術の研究を始めた頃は、米国でこのテーマの美術史的重要性や将来性を信じていたキュレーターはいなかったと続けた。いわば、未知の領域だったが、「日本の戦後美術の歴史的正当性や新しい表現、活力に対する熱い信念、また、新たな視点こそが、日本のアートや広くモダンアートの見方や研究の裾野を広げていくのだと確信していた」という。レクチャーは日本と関わるきっかけから、日本の近現代専門のキュレーターとなり、今日のグローバル・アートにおいてのミュージアム・リーダーに至る迄が語られた。キュレーターとして、研究者として、そしてまた活動家としてのモンロー氏の取り組みは、米国における日本の近現代美術の受容の変遷と対をなしている。

 

photo by Ujin Matsuo

 

 1. 日本との出会い

戦後の占領下の日本の文化を米国に紹介した映画評論家のドナルド・リチーや三島由紀夫文学の翻訳者のメレディス・ウエザビーらと親交のあった両親のもとで、具体美術協会発祥の地である芦屋で過ごしたことのあるモンロー氏。その後も同志社大学との交換留学や上智大学への留学、京都の養徳院での修行と臨済宗での座禅、茶道などのたしなみから得た、日本の歴史、文化、美学に対する経験と知識は氏の研究の基盤になっているという。これをひとつの教えにまとめるのは難しいとしつつも、「若い研究者やキュレーターが近代のアジア美術に関わるときには、必ずその国の古典芸術や哲学、近現代アートとその言説を並行して身につける」よう促すそうだ。

モンロー氏が仕事を始めた当初から念頭においていたのは、美術館や学術機関、その先のアメリカ人の西洋中心の見解を変えることであった。80年代当時はその役割が米国で必要とされており、両文化の文化外交官を自認するモンロー氏の活躍の場となる。

2. 方法としてのアジア

モンロー氏は「西洋では、20世紀の大半において、モダニズムは形式が中心から周縁へ伝わったとされ、非西洋的なモダニズムは扱われても単なる『翻訳』と見なされていた」と指摘。氏が日本の近現代美術の研究を始めた頃から、地政学と理論的な変化が近代美術史と同時代の文化的な取り組みに対して、新しい形のマッピングと解釈をもたらしてきたという。それは、文化人類学者アルジュン・アパデュライの「トランス・ナショナリズム」[i]のモデルにみる、世界に分散する運動や言説と結びつくもので、アパデュライの理論では、近代社会は、国民ー国家という固定されたアイデンティティーよりも、異なる国籍の人々の間でおきる、ダイナミックな異文化間の流動性で決定されるとした。この寛容で混沌とした予測不可能な現象をアパデュライは「さまよえる近代」と名付けている。[ii]

一方でモンロー氏は「東アジアでは、アーティストは、以前からの地域の文化を深く掘り下げながら、国境を超えて交流や共同制作によって芸術的発展を刺激していた」と分析する。また、日本のアーティストや知識層は、文明開化で「西洋化」が始まった当初から、西側主導のモダニスト的イデオロギー転換に抗っていた点に注目。明治維新後の日本と20世紀初頭の中国の近代化を比較した評論家の竹内好の「方法としてのアジア」(1960)を援用し、「東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する」視点[iii]で「日本、中国そして韓国の美術をクローバールな文脈でとらえてきた」と述べた。

 

photo by Ujin Matsuo

 

3. ニューヨークでの出会い

モンロー氏と日本の戦後前衛芸術との出会いについても語られた。日本留学後は1982年に米国における日本の芸術、時事問題、文化の理解を広くおこなうニューヨークのジャパンソサエティー・ギャラリーのキュレーターに就任、館長のランド・カスティール氏の下で篠原有司男「東京バズーカ」展に携わることになる。東京芸術大学で油絵を学んだのち、60年代には、日本の前衛芸術運動の ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズの筆頭メンバーであった篠原は、初めてスタジオを訪問したモンローに、子供のころ米国の進駐軍が配っていたキャンディーのカラフルな包み紙が、新世界への魔法の絨毯のようにみえた話を語ったという。 星条旗やマルセル・デュシャンのチェス盤、ロバート・ラウシェンバーグの《コカ・コーラプラン》などを流用した、60年代初期の篠原の作品群にみられる寄せ集めのイメージは、「日本の敗戦がもたらした文化の空白に対する反発」とみる。モンロー氏は、「私はこのしきたりから解放された精神、磯崎新が呼ぶところの『歴史の死滅』が日本の戦後の前衛芸術を生み出す原動力であることをニューヨークで発見したのです。そして、これを私の学芸と学術研究にして、その歴史を国際的なモダニズムの広い文脈に置いてみせると決めたのです。」と述懐する。

1985年にニューヨーク大学大学院に進むが、当時は、日本の戦後の前衛美術についての英語文献は皆無で、研究計画は米国の学会では「異端的」とみなされたそうだ。粘り強い継続のすえに、1989年にニューヨークの国際現代美術センター(CICA)で史上初の草間彌生回顧展を実現。様々な文脈で作品を読み解いた展覧会は大評判となり、欧米と日本の前衛美術史における草間彌生再考の機運を高めた。

展示では、草間の「無限の網」シリーズをドナルド・ジャッドのミニマリズムの文脈で、《軟体彫刻》を批評家のルーシー・リッパードが名付けたエキセントリック・アブストラクションの文脈で、また美術史のなかの草間の役割をアムステルダム市立美術館で1965年に開催された歴史的な展覧会「ヌル国際展」に見出し、彼女のハプニングイベントは米国のプロテストアートとフェミニズムの文脈で提示した。また、草間が「オブセッショナル・アート」と呼ぶアーティスト独自の心理的視点を通した世界に注目した展示であった。

また、草間展では、気鋭の研究者の富井玲子と出会い、それ以降、共同でいくつもの企画に取り組んだ。二人は戦後の日本美術という新分野について、専門の領域横断的な新しいアプローチが必要だと考え、「我々は研究と批評を兼ね備えた国際的な正規の学問として、近現代の日本美術という新しい学術領域を打ち立てねばならない」と感じたという。

photo by Ujin Matsuo

 

4. 戦後日本の前衛芸術展

米国で孤軍奮闘のなか、機が熟したのは、横浜美術館学芸員の天野太郎氏から依頼を受けて、1994年に「戦後日本の前衛美術 」展を企画したときだ。展覧会は1952年頃から1989年に渡る日本の前衛的な表現活動の足跡を辿る内容で、アーティスト100作家の200作品の絵画、彫刻、パフォーマンス、ビデオ、写真、実験映像、インスタレーションなどの表現が展示された。横浜美術館を皮切りにグッケンハイム美術館、1995年にサンフランシスコ近代美術館を巡回。

「本展は様々な意味で前例がなかった」とモンロー氏は回顧する。一つは、展覧会は素材や時代などの特定の集合体を軸にしていないことだ。意図的に知的、政治的そして美学的な反体制を切り口に、1960年の安保闘争、1968年の学生運動、1960年後半から70年前半の反万博闘争、1980年代の反天皇制運動を含む、戦後日本の左派運動と連動しているとした。読売アンデパンダン関連の運動、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、ハイレッド・センターと九州派などが展示。反体制運動との関連や西洋文化の盲目的な同化への強い抵抗と日本の近代美術の体制に反旗を翻した点に着目した。

二つ目は、日本の近代美術史に登場しない陶芸、書、写真、実験映像をひとつの展示に収めたことだ。伝統とモダニズムの章では、モダンな戦後復活と伝統芸術への批判的な復活に舵をきった前衛書道家集団『墨人会』、前衛陶芸集団の走泥社、イサムノグチ、長谷川三郎など、様式や手法にこだわらない横断的な展示であった。 三つ目は日本で学んだナムジュン・パイクや李禹煥などの韓国人アーティストやオノ・ヨーコ、荒川修作などの在外日本人アーティストを加えた本展は、戦後の日本の美術と国際的な動向と交差した戦後美術のダイナミックな物語を紡いだ。

以上に加えて、ゼロ次元と具体美術協会で幕をあける、特異な展示構成もその理由に挙げた。展示は田中敦子、白髪一雄などの具体のパフォーマンスやインスタレーション、ミシェル・タピエと共作した抽象絵画など実験性を帯びた作品から始まった。米国巡回を視野にいれていたと語るモンロー氏は、「具象画から始めたら、(観客は)結局は(西洋の)模倣じゃないか、見るに堪えないとなり、(展覧会は)失敗する」と考えたという。

そのほか、実験工房や東京フルクサスとグループ音楽を含む実験映像やビデオ作品も展示。もの派については、その取り組みと思考に焦点をあて、李禹煥、菅木志雄、小清水漸とポストもの派の遠藤利克と川俣正ほかを米国で初めて紹介した。

1995年に米国のグッケンハイム美術館に巡回した際には、米国初の日本の戦後美術展をニューヨーク・タイムズ紙がこう評した。「『戦後日本の前衛美術』展は、少なくとも多くの答えがあるのと同じくらいの問いを投げかける。しかし、間違いのないことは、日本の現代美術は純粋に西洋の言説のなかで読み解くものではないということだ。」

「時を経て、戦後日本の前衛芸術の傑出した業績を紹介しようとした私の努力は、ついに米国の学会と美術機関に一石を投じた。」とモンロー氏。同展の理論的な枠組みは、非西洋の近現代美術の研究モデルとなり、展覧会の図録は今ではその教科書となった。

美術史において大きな変化をもたらした本展だが、モンロー氏は開催当時と同年代を扱った最終章の1990年代だけは展示するには短すぎたと省みる。その検証は今後に委ねたいとした。

 

photo by Ujin Matsuo

 

5. 次世代のアジア美術を目指して

1998年にジャンパン・ソサエティー・ギャラリーに戻り、ディレクター職についたモンロー氏は、ジョン・レノンが「世界で最も知られた無名アーティスト」と呼ぶ、オノ・ヨーコの回顧展「イエス、ヨーコ・オノ」展を企画。「才能ある重要なアーテイストとして、(美術史における)彼女の影響の重要性を確立するときが来た」と確認したという。ダダイストのマルセル・デュシャンやハイアートと日常の境界を壊したジョン・ケージのなかにオノを位置づけた。同館のディレクター時代には、ラジカルな現代の視点を通した日本の伝統芸術の展覧会や森山大道と東松照明の米国初の回顧展などを実現。村上隆をゲストキュレーターに招いた「リトルボーイ:爆発する日本のサブカルチャーアート」展(2005)では、日本のおたくカルチャーを検証した。

2006年にグッケンハイム美術館に移ったのちは、欧米の近代美術館として初めてアジアの美術専門のキュレーター部門を設立。現在は常勤キュレーターが4名在籍する。また、アジアンアートカウンシルも設立し、新しい枠組みでグローバルな美術史の研究発表をする前衛的なアーティストや学者、思想家、キュレーターを入れ替わりに招聘。モンロー氏たちの活動に影響をうけた他館も次第にアジアの近現代分野に参入し始めたことによる美術史の見方の変化を、「地道な努力の末、我々はグッゲンハイムの遺伝子を変えた」と表現した。

モンロ―氏は「グローバル」という言葉は、いまでは芸術における欧米の覇権批判としての急進的な役割を失ったと分析する。新しい自国中心主義、民族中心主義に突き動かされた、反グローバルの動きから何が起こるのか。そして、私たちはどのようにアジアの学者、知識人、アーティストたちと関わり、文化的立ち位置の再調整と再構築をすればよいか。文化の実践者として、どんな新思想を援用して未来を形成、意味付けできるか。そんななか、モンロー氏は、「グローバル化した社会でも、好むと好まざるとにかかわらず、自らを見つめるアイデンティティーの問題や既存社会への抵抗、差異に対する新しい表現は、したたかに存在する」とみる。「そして、いつもながら、この次は何だろうと私が期待するのは、日本なのです。」と、今後の日本の美術に対するエールとともにレクチャーは締めくくられた。

モンロー氏が文化の架け橋となり、欧米のアジアに対する見解を変えるために挑戦を重ねたことが追体験できるようなレクチャーは、今日のアジアの美術展においては当然のこととして受け止められている、領域横断的なアプローチ、多元性、モダニズムの脱中心主義などが、氏の地道な取り組みを経て米国の各展覧会でどのように受容されるようになったかを知る貴重な機会となった。

photo by Ujin Matsuo

下記参考文献はモンロー氏による。参考文献の日本語訳がある場合は、日本語書籍を筆者が追加した。

[i]トランスナジョナリズムについての議論は次の文献を参照のこと。アルジュン・アパデュライ著、門田健一訳『さまよえる近代』2004年、平凡社;ホミ・K・バーバ著、本橋 哲也、外岡 尚美、正木 恒夫、阪元 留美訳『文化の場所―ポストコロニアリズムの位相』2006/2015年、法政大学出版局;Andreas Huyssen, ed. Modernism after Postmodernity, New German Critique, 99 (Fall 2006); and Andreas Huyssen, ‘Geographies of Modernism in a Globalizing World,’ New German Critique 34, 1 (Winter 2007)

[ii]アルジュン・アパデュライ著、門田健一訳『さまよえる近代』2004年、平凡社

[iii]竹内好「方法としてのアジア」『日本とアジア』2016年、ちくま文芸文庫、469p

 

著作目録:

 アレクサンドラ・モンロー、『草間彌生 回顧』展、「強迫観念、ファンタジーと怒り:草間彌生のアート」(国際現代美術センター、ニューヨーク、1989年)

アレクサンドラ・モンロー、『戦後日本の前衛美術』展(ハリー・N・エイブラムス、ニューヨーク、1995年)

アレクサンドラ・モンロー、ジョン・ヘンドリクス『YES オノ・ヨーコ』展
(ハリー・N・エイブラムス、ジャパン・ソサエティー、ニューヨーク、2000年)

アレクサンドラ・モンロー、『リトル・ボーイ:日本の爆発的サブカルチャー』展、「リトル・ボーイの紹介(編集:村上隆)」(ハリー・N・エイブラムス、ジャパン・ソサエティー、ニューヨーク、2005年)

アレクサンドラ・モンロー、『リ・ウーファン:マーキング・インフィニティ』(グッゲンハイム出版、ニューヨーク、2011年)

ミン・ティアンポ、アレクサンドラ・モンロー『具体:スプレンディッド・プレイグラウンド』(グッゲンハイム出版、2011年)

 

アレクサンドラ・モンロー
アジア美術専門とするキュレーター、学者、著者。美術館のグローバル戦略の発展に貢献。この世代の最も重要なキュレーターの一人として国際的に認知されている。草間彌生(1989)、オノ・ヨーコ(2001)、蔡國強(2008)と李禹煥(2011)など、アジア出身アーティ ストの米国内初回顧展を多く開催。第二次世界大戦以降の日本美術を総体的に検証した「Japanese Art After 1945:Scream Against the Sky」展(1994-1995)は北米の学術・学芸分野における日本戦後美術研究を進展させた。また、近代・現代アジア美術とトランスナョナル・アート・スタディーの権威であり、2006年よりソロモン・R・グッゲンハイム美術館(ニューヨーク)に勤務。自身が着任するにあたり新設されたアジアン・アート部門サムスン・シニアキュレーター、グローバル・アート部門シニアー・アドバイザーとして、非西洋圏アートの研究・作品収集・展示を取り仕切る。同美術館のプログラムが対象とする地理をさらに拡大している。同美術館ではグッゲンハイムAbu Dhabiのコレクション・プログラムを考案・実行するキュラトリアル・ワーキング・グループに携わる傍ら、自らが設立した学芸員のシンクタンクであるグッゲンハイム・アジアン・アート・カウンシルの議長を務めている。国際美術評論家連盟(AICA)より「Best Show」賞を4度受賞。2017年度国際交流基金賞。平成30年文化庁長官表彰。

INFORMATION

【文化庁アートプラットフォーム事業】
日本現代アートサミット2019
トランス/ナショナル:グローバル化以降の現代美術を語る

公開キーノートレクチャー(1)
講師:アレクサンドラ・モンロー (ソロモン・R・グッゲンハイム美術館 アジア美術部門サムソン上級キュレーター/ グローバル美術部門上級アドバイザー、 グッゲンハイム・アブダビ・プロジェクト キュレトリアル部門暫定ディレクター)
モデレーター:片岡真実 (森美術館副館長兼チーフ・キュレーター)
日時:2019年3月19日
会場:六本木アカデミーヒルズ
主催:文化庁
協力:森美術館

WRITER PROFILE

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黒岩朋子 Tomoko Kuroiwa

キュレーター 。コーディネーター。森美術館学芸部勤務を経て、2009~2018年までインド、ニューデリー在住。滞在中は現地から現代美術情報を美術雑誌に紹介するほか、日本の国際展や展覧会の現地コーディネイトおよび調査に携わる。主な活動に、国際交流基金「Omnilogue:Journey to the West」展(2012)、現地コーディネーター(デリー)、第5回福岡アジア美術トリエンナーレ2014協力キュレーター(インド)、小沢剛「The Return of K.T.O.」(2017)の現地制作コーディネイター(コルカタ)など。現在は拠点を東京に移し活動。最近では、東京都現代美術館「石岡瑛子ー血が、汗が、涙がデザインできるか」展のコーディネイターを務める。

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