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OUT AND ABOUT

YPAM – 横浜国際舞台芸術ミーティング 2021
2021.12.1-19
KAAT神奈川芸術劇場、BankART KAIKOほか

Written by 高橋宏幸|2022.1.20

劇団態変『翠晶の城 – さ迷える愛・序』 撮影:前澤秀登

 

TPAMからYPAMへ——続くことがつながること、つながることが続くこと

「TPAM – 国際舞台芸術ミーティング in 横浜」が、「YPAM – 横浜国際舞台芸術ミーティング」という名前になった。かつて、東京の有楽町の国際フォーラムや、恵比寿のガーデンプレイスで開催されていたことを思えば、横浜へ移動してもう十年ほど経つだろうか。名前を実態に合わせたといえる。

舞台芸術の見本市としてマーケットを目指していたころから比べれば、現在の姿は変わった。しかし、ここ何年もかけて培ったプログラムの形態は、TPAMからYPAMとなっても続いている。むしろ、マーケットからミーティングに変わり、いまでは交流のためのプラットフォームとして着実に機能している。ミーティングをうながす企画たちが、定着したと言った方がいいかもしれない。

主なものを挙げると、ディレクションの企画ではYPAMが選んだ作品、もしくはアーティストに委嘱してクリエーションにもたずさわる作品がならぶ。エクスチェンジの企画では、YPAMの名前にあるアーツ・ミーティングにふさわしく、日本に限らない舞台芸術関係の協会、助成団体、アーティストなど、プレゼンターたちのパネルが催される。そしてフリンジには、登録団体が、それぞれの公演を、さまざまな劇場やスペースで公演する。

抗原劇場『華氏同盟』

 

YPAMフリンジ

いくつかフリンジに参加した作品をあげてみる。

抗原劇場の『華氏同盟』。横浜の大岡川のほとり、とある場所で俳優と参加者で行われるパフォーマンスだ。その地域の住むものでなければ、たしかにそのロケーションは興味深い。一時期ブームのように上演されて、すぐに廃れた、おさんぽ演劇とはちがう。

文明の崩壊後、書物の禁止や焚書のあとでも、書物の記録を残そうとする壮大なSF的な世界観を、あえて小さく、演劇としての最小単位で行う。参加者がそれぞれ残したい本を一冊もってきて、それを一対一でパフォーマーと覚える。レイ・ブラッドベリの『華氏451度』に着想を得て、口伝という方法をもってメモライズを試みる。そもそも紙や半導体メモリーなどの記録ではなく、口承文学のように、口伝はもっとも原始的であると同時に、長く続いた方法である。活版印刷よりもはるかに古く、物語は韻などを踏みつつ、紙という媒体に頼らずとも残された。むしろ、紙や本における記録の方が、時代的には後だ。書物を口伝で覚えることは、転倒していることに気づかせる。紀元前のインドのヴェーダ文献などは、バラモンたちの暗唱によって伝えられた。1時間に満たない小品だが、さまざまに思いをめぐらせる。そして、触発する言葉たちがある。

ハラサオリ『P Wave』Photo by Yunosuke Nakayama

コンテンポラリーダンス界隈で注目の場所となっているDance Base Yokohama。ハラサオリの『P Wave』が上演された。隙のない作品とでも言おうか。身体性や動き、一つ一つをとれば、目新しさとは違うかもしれない。しかし、三人のダンサーたちが、たむろい、支え、ゆれて、さぐりあうかのように動くさまは、なにをしているのか、見ているもののまなざしを誘導する。イントレが出てきて、ダンサーが入り、ゆれて、ゆらして、上部に置かれた水槽からは水があふれてこぼれる。否が応でも、ゆれは地震、水は津波を想起する。ごく私的な個人の身体のゆれが、やがて大きな文脈へとつながっていく。作品そのものの形式は、特異な身体性や動きなど、かつてあった奇異なおもしろさとしてのコンテンポラリーダンスとは違うが、コンセプトの堅実さや、作品のはじまりから結末まで、時間の流れを巧妙に作るうまさがある。

ARICA『ミメーシス』 写真:宮本隆司 ©️2021

いつしか長いキャリアとなった20周年を迎えたARICAは、BankART Stationという新高島駅直結のスペースで『ミメーシス』を上演した。今回は、ダンサー川口隆夫と安藤朋子のパフォーマンス。いままでも黒沢美香や山崎広太など、ダンサーを招いた作品はあった。

川口隆夫が内股で、自ら、もしくは何かに抑圧されるかのように身体を拘束されて、ぎこちなく立っている。ゆっくり歩く安藤朋子は、始終拘束されている川口隆夫を、さらにロープを使って、もてあそぶかのように、様々なたわむれを繰り広げる。ただし、一方から一方へと、単純な抑圧的な関係、主人と奴隷やサディズムとマゾヒズムのような関係からは、ずらされる。ロープという、ものとのかかわりのなかで、手懐けたり、絡ませたり、ときにロープというもの自体が、主体的に見えてくる。『Parachute Woman』や『KIOSK』など初期の作品を振り返っても、ものと身体、ものと行為とのあいだにある関係性そのものを問うことがあった。作品の形態やあらわれの変化はあるが、一貫して追求することは変わらない。

 

恣意的にいくつかの作品をあげたが、YPAMフリンジに集う作品たちは、舞台芸術のなかでも、ある傾向性がある。むしろ、おのずとだろうか、いつしかフリンジのイメージを形づくる作品たちが集まっている。いわゆる演劇的な、あまりに演劇的な作品とはちがい、コンテンポラリーダンス、パフォーマンス、ポスト・ドラマ演劇とでも呼ぶ作品たちがある。

小規模の作品は多いが、それらはフリンジというプラットフォームによって、可視化された量になる。そして、量はいつしか層となる。都市空間のはざまで、埋没することなしに作品があるのも、そのプラットフォームとしての役割が機能しているからではないか。

 

YPAMエクスチェンジとYPAMディレクション

もちろん、変わらないのはフリンジだけではない。数多いエクスチェンジ企画の内容も舞台芸術界隈の現在の状況を伝える。主にオンラインでのパネルとなったことに、メリット、デメリットはあるだろうが、そこに言葉を費やすことには、もう誰もがあきているだろう。実際、コロナ時代のなかで、オンライン・サロンは隆盛だ。

日本へと渡航することの難しさはある。一時期のあふれかえった海外からのプレゼンターやアーティストの数と比べたら、観客席や劇場の周りでたむろう人は少ない。しかし、そもそもコロナ前でも、エクスチェンジ企画は、それをもとにつながる、ひとつのきっかけでもあった。さまざまなパネルから、アーティストやプロデューサーたちは、会場での挨拶から、カフェや道端での談笑、もしくは深夜おそくまで、バーでのネットワークづくりに勤しんだ。

TPAMを通して海外へと活路を見出したアーティストたち、もしくはそのネットワークづくりに励む人びとをほほえましく見ながら、資本主義と国家の上をフローすることに思いをめぐらしたものだ。海外をツアーすることに一定の成果があったならば、コロナによる空隙も、その共同体に破れを見出す、いったんの風通しとして悪くないだろう。

むろん、YPAMディレクションによる公演は、作品として完結されている。だが、それもつながりのきっかけでもあった。かつてに比べればディレクションの数は減ったかもしれないが、その数は無理なく見られるものだ。

ヤン・ジェン『Jasmine Town』 撮影:土田祐輔

ワーク・イン・プログレスとして公開された『ジャスミン・タウン』。この作品は、TPAMから変わらない部分として、同時に今後のYPAMの機軸の一つとして据えられたのかもしれない。

世界中のある一定規模以上の都市には、必ずといっていいほどある街、チャイナ・タウン。横浜の中華街は、観光地でもあり、YPAMのディレクション公演が催される、神奈川芸術劇場とも近い。中華街で軒をならべる数々の店や、観光地としての趣きは、みなが知るところだろう。だが、そのコミュニテイの内部は意外と知られていないのではないか。彼らは、なぜ、どこから来て、どのような人々が暮らしているのか。華僑はイメージできても、世代的には二世か三世か。もしくは、いまも移動のなかにあるのか。その実態の一片を作品化する。

それは、エクスチェンジの基調講演「無国籍者から見た国際交流」ともつながる。講演者の陳天璽(ちんてんじ)は、作品にも出演してエピソードの一端を披露する。講演では、中華街の歴史から、無国籍であった自身とその家族の来歴、さらには国籍というものから見た世界の状況がレクチャーされる。その話は、民族やセクシャリティだけでない、国籍から見たマイノリティの世界が映される。まるで作品のように興味深い。それを来年、完成された作品がいかに超えるか、今後の課題かもしれない。

基調講演「無国籍者から見た国際交流」 撮影:前澤秀登

 

ほかには、劇団態変の三部作の上演があった。『翠晶の城——さ迷える愛・序』、『箱庭弁当——さ迷える愛・破』、『心と地——さ迷える愛・急』。かつてこの第二部がTPAMでは上演されたことからも、今回の三部作上演も、TPAMからYPAMになっても変わらないことを印象づける。

やはり昨今のものわかりのよさそうなインクルーシブのイメージでは、劇団態変は捉えきれない。障碍をアートのパッケージによって公共圏に包摂する状況に対して、むしろ、公共圏に対してものを言う姿勢がある。アンダーグラウンド演劇や舞踏など、かつての実験の時代の文脈とでも言うべきだろうか。作品は運動であり、運動は作品でもある。その身体は、見ているものにとって、目をそらすことをゆるさない集中と強度がある。

劇団態変『箱庭弁当 – さ迷える愛・破』 撮影:前澤秀登

国籍のマイノリティ、民族的なマイノリティ、障碍者というマイノリティなど、資本と国民と国家の結合の中から、隙間にこぼれおちるものたち。たしかに、グローバリズムのなかで作品たちは流通する。それは、コロナになっても、いやコロナとなったからこそ、国家と国境という問題が浮上する。そして、なんら変わっていないことを認識させる。

しかし、その時代のとば口のなかで、その間を移動するものたちに焦点を当てようとすること。もしくは、その視点をもつものたちを取り上げる姿勢は、TPAMからYPAMになっても変わらない。無色透明で無味乾燥なプラットフォームではなく、主催団体の矜持ともいえる、どのようなプラットフォームたろうとするのか。ここ何年間のあいだで培った、その軸線はある。

東アジアや東南アジアに、そのきっかけをもとに、ハブのように作られたネットワークはコロナの現在は難しくとも、いつかまた、どこかで人々を出会い、つなげるだろう。YPAMが、その機能を維持し続けることは、思わぬ偶然もきっと生む。そして、期せずして、そのつながりによって続くこともあるだろう。

 

INFORMATION

YPAM – 横浜国際舞台芸術ミーティング 2021

会期:2021年12月1日 - 19日
会場: KAAT神奈川芸術劇場、BankART KAIKOほか
主催:横浜国際舞台芸術ミーティング2021実行委員会(公益財団法人神奈川芸術文化財団、公益財団法人横浜市芸術文化振興財団、特定非営利活動法人国際舞台芸術交流センター)

WRITER PROFILE

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高橋宏幸 Hiroyuki Takahashi

1978年岐阜県生まれ。演劇評論家。桐朋学園芸術短期大学 演劇専攻 准教授。日本女子大学、多摩美術大学などで非常勤講師。世田谷パブリックシアター「舞台芸術のクリティック」講師、座・高円寺劇場創造アカデミー講師。『テアトロ』、『図書新聞』で舞台評を連載。Asian Cultural Councilフェロー(2013年)、司馬遼太郎記念財団フェロー(第6回)。

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