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PERFORMANCE

『未練の幽霊と怪物ー「挫波」「敦賀」ー』
2021.6.5 – 6.26
KAAT神奈川芸術劇場プロデュース

Written by 湯山玲子|2021.8.24

撮影:高野ユリカ

能は演劇の中でも、非常に特殊な感覚を観客にもたらす。日本の古典芸能として、歌舞伎と並び立てられることが多いが両者の本質は全く違う。確かに歌舞伎には、モチーフが能の演目と重なるものもあるが、歌舞伎の本質は“芝居”にあり、舞台上では「演目のリアル」が表現されることが重視され、観客は、たとえば、悪党が住む庵室の闇を悪人のツラ構えとともに、その雰囲気を堪能することになる。

しかし、能はそうではない。能舞台は、記号のようなシテの能面や装束のほかは、シンプルに抽象化されている。シテの動きは、非常にゆっくりとしていて、ほとんどの情報は、シテが発する謡とコロス的な地謡というサウンドからもたらされて、受け手の感覚としては「音楽」のようなのだ。シテの動きから来る「時間の引き延ばし」は、完全に日常と断絶。そのように日常世界から結界を張られた場所で、観る側の心に発生するのは、実のところ自問自答。脳みそのどのスイッチが何に反応するのかは不明だが、それよって掘り起こされたあるイメージや言葉がひとり遊びを始めるのだ。

まるで、蓮の花が開くがごとくのシテの微細でスローな所作、そしてたいていの場合、あらかじめ知っている演目のストーリーが補助線となって、いつしか自分も他人も、そして事物も溶けゆくような、自分と世界がつながる境地が出現するのだ。そして、何よりもここが凄い!と思うのが、その体験が個人的な心の旅であるにも関わらず、多くの人が同じ所に導かれてしまうという表現成果(まあ、いい演者の舞台だけですが)!  能の幽玄とは、言葉に表すことができない人間の思惑を超えて“在る”ものを共感させようというシステムなのである。

だが、時空を越えて、ひょんな現代のストリートカルチャーにも顔を出すことがある。DJが爆音の中に音の要素やビートをミックスして紡ぎ出す、言わば音響の旅ともいえる、クラブミュージックの現場には、同様の “境地”が発見できたりもする。囃子と謡からなる能楽の音楽は、実は現場の能楽堂で聴くと、かなりの音量であり、メロディーなどの心を留めるアンカーがないその音響は、「時間と変化」というものを浮き彫りにしてくる。「気がつくと、同種のビートの中、全く違う世界観に運ばれてしまっている」というクラブ/DJミュージックがもたらす“境地”ともの凄く似ているのだ。シテの動きを “目止まり”として凝視しつつ、実のところ視覚はあまり機能しないとしいう観客の視線は、DJを見つめて踊るオーディエンスのそれと似ている。

撮影:高野ユリカ

「能の構造」を使って、現代劇を創り上げる場合に、多くの演出家は「昔も今も人間心理や営みは共通だ」という古典のセオリー通りに、その背景を現代の日常に設定するだろう。シテの多くは、現世に恨みや未練を残した幽霊であり、それはもう全ての人間に当てはまる普遍だからだ。しかし、作・演出家の岡田利規が取り上げた“未練と恨みの幽霊”、つまりシテの恨み辛みと無念は、スケールがデカすぎる。なんと、東京オリンピックの目玉会場、 国立競技場の設計者として一度は決定しながら、白紙撤回されたザハ・ハディド(『挫波』)と、一兆円の資金を投じられながらも一度も正式稼働することなく廃炉の道を辿る「もんじゅ」に与した核燃料サイクル政策(『敦賀』)のふたつ。ザハ・ハディドは、確かにその存在感と才能が怪物的ではあったが、「もんじゅ」の核燃料サイクルはもはやひとりの人間ではなく原子力政策そのもの、というもはやギャグのような設定だ。しかし、そのバカでかい設定こそが、まさに作・演出家が裏テーマとしたはずの、「つぶやかれた無数の言葉が人を自殺に追い込むSNS時代」の恨み辛みと無念の無意識集合体の巨大さを浮き彫りにしてくる。そう、国立競技場、それとともに東京オリンピック、そして原子力発電の周辺には当事者だけではなく、どれほどの人々の想念が渦巻き、SNSでの炎上を招いたのだろうか!?

前者は白紙撤回、後者は一度も稼働せずに廃炉決定、という存在を全否定されたような「未練と恨み」の大きさもさることながら、周辺には関係者のそれもあり、また、ここが非常に重要なのだが、ジャーナリズムやその周辺に踊る多くの人々の言葉が存在し、それを見知った人々の中では個人個人にもうひとつの見識ができているという、いやはや、SNS時代ならではの恐ろしいまでの想念幽霊ぶりである。

能は前述したように、自問自答に観客をハメていく。観客の脳みそから、それらニッポンの構造悪そのもののふたつの案件から得た様々な思惑を引っ張り出す。そのモヤモヤが舞台上のシテやワキ、地謡としての七尾旅人の唄に投影されたとき、まさに幽玄、つまり、言葉に表すことができない人間の思惑を超えて“在る”ものが現れる、というわけだ。

戯曲を読むと、セリフ自体は全く思わせぶりではなく、オリンピック招致、国際コンペ、そして、核燃料リサイクル、高速増殖炉などが、ジャーナリスティック、つまり直接的で伝わりやすい言葉で語られていく。つまり、そのセリフ群と、私たちの頭の中にすでに存在している、それら事件の常識とはあまりズレはなく、それだけでは、観客に自問自答が始まる「能的スイッチ」はあまり期待できない。

と、ここからがこの舞台作品の素晴らしいところで、私たちの脳内とセリフで語られる、騒がしいまでの事件の常識と心証に、演者の存在と演技が強力に介入して、別の世界の扉が開く。「能的スイッチ」のキモはまさにそこであり、作・演出家は、能を現代に召喚する軸を揺るぎなく舞台上に作り上げているのだ。

撮影:高野ユリカ

特に『挫波』で、前半は日本の建築家、そして後半はザハ・ハディドを演じたシテの森山未來には恐れ入った。登場し、陸橋の欄干に伏せっているその両腕の有り様からすでに異形。地謡の七尾旅人は、「それはザハのデザインのせい 三次元曲面の複雑怪奇なせい」などという「世間の常識」をフォーキーな吟遊詩人のように歌っているのだが、その言葉ひとつひとつを同時通訳する身体言語のように、森山は踊っていくのである。

私事だが、つい最近、「全く音楽を、聴いて踊っていないよね?そりゃ聴いているのだろうけど、そこの本質と関係が持てていないよね」という体(てい)の著名なダンサーふたりの舞台を観て、こんな時代(舞踊と音楽の不可分性については、テレビの教養番組レベルで一般に取り沙汰されている)のプロフェッショナルにそのことが意識されていないことに、驚いたのだが、森山未來のダンスは、七尾旅人の歌詞とメロディー、内橋和久の音楽にキメラのように忍び込んでいるのだ。

撮影:高野ユリカ

撮影:高野ユリカ

『敦賀』のシテの石橋静河も同様で、非常に緻密に“音楽”と“言葉”を聴いており、「一度も稼働することなく廃炉の道をたどるもんじゅ」は、彼女の産む性である女性の身体で演じ踊られると、そこにまた別種の痛みすら発生する。

ふいに思い出したのが唐十郎の「特権的肉体論」。役者個々の人生に根ざす特権的肉体が語りだし、「劇的なイリュージョン」となって舞台に登場するという演劇論だが、ワキやアイを演じた片桐はいり、栗原類、太田信吾は、素晴らしく適材適所であり、全く隙がない。すでに小劇場では当たり前になっているそれを、久々に感じた舞台でもあった。作・演出家自体が、役者を信用し、テキストでは書き得ない境地をゆだねている、という姿勢は、創作者が神になってしまう、最近の映像やマンガなどのコンテンツには見られないものだ。

このコロナ禍。「やっばりナマじゃないとダメ」という声はそこかしこで聞こえてくるが、本作のような舞台の力を確信し、現実の表現に落とし込む真のクリエイティヴをもって、やっばり「ナマじゃないとね!」と言いたいわけです。

 

INFORMATION

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース
『未練の幽霊と怪物ー「挫波」「敦賀」ー』

日程:2021年6月5日〜6月26日
会場:KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ

作・演出:岡田利規
音楽監督・演奏:内橋和久
能『挫波』出演:太田信吾、森山未來、片桐はいり
能『敦賀』出演:栗原類、石橋静河、片桐はいり
歌手:七尾旅人
演奏:内橋和久、筒井響子、吉本裕美子

WRITER PROFILE

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湯山玲子 Reiko Yuyama

著述家、ディレクター。 興味: 著述家。出版、広告の分野でクリエイティブ・ディレクター、プランナー、プロデューサーとして活動。同時に評論、エッセイストとしても著作活動を行っており、特に女性誌等のメディアにおいては、コメンテーターとしての登場多数。現場主義をモットーに、クラブカルチャー、映画、音楽、食、ファッション等、文化全般を広くそしてディープに横断する独特の視点には、ファンが多い。 メディア、アート、表現文化ジャンルにおける、幅広いネットワークを生かして、近年は、PR、企業のコンサルティングも多く手がけている。著作に『女ひとり寿司』(幻冬舎文庫)、『クラブカルチャー!』(毎日新聞出版局)、『女装する女』(新潮新書)、『四十路越え!』(ワニブックス)など。自らが寿司を握るユニット「美人寿司」を主催し世界を回る。(有)ホウ71取締役。日本大学藝術学部文藝学科非常勤講師。 

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