HOME > REVIEWS > PERFORMANCE
> Whenever Wherever Festival 2021「Mapping Aroundness──〈らへん〉の地図」2021.12.23−26スパイラルホール+その周辺、7days 巣鴨店、オンライン 他
PERFORMANCE

Whenever Wherever Festival 2021
「Mapping Aroundness──〈らへん〉の地図」
2021.12.23−26
スパイラルホール+その周辺、7days 巣鴨店、オンライン 他

Written by 宮川麻理子|2022.3.11

「未来アナーキー」振付・出演:敷地理 キュレーター:山崎広太
撮影:黑田菜月 Whenever Wherever Festival 2021 提供:Body Arts Laboratory

〈らへん〉にあったものとこれからあるであろうもの

「ダサカッコワルイ・ダンス」振付・出演:Aokid、山崎広太、小暮香帆、後藤ゆう、鶴家一仁、宮脇有紀、モテギミユ、山口静 キュレーター:山崎広太
撮影:黑田菜月 Whenever Wherever Festival 2021 提供:Body Arts Laboratory

2009年からアーティスト主導で始まったWhenever Wherever Festival。ここ数年は、複数名の共同キュレーションで開催され、2021年は12月23日〜26日に二つのプログラムが行われた。「Mapping Aroundness––〈らへん〉の地図」は、「都市を介して、容易に名づけられない固有の領域(らへん)を想像的に見つけ出す *1」プログラム、一方25、26日の「Becoming an Invisible City Performance Project〈青山編〉––見えない都市」では、青山周辺で採集された感覚からスコアを作り、それをもとにパフォーマンスが行われた。これらのプログラムは「枠組み」で、その中に複数のイベントが(同日同時刻にも)開催されたり、展示があったり、青山から巣鴨、さらにはオンライン上にまで場が拡大したりと、全てに立ち会うのは事実上不可能である。一体何が行われるのか定かではなく、足を踏み入れるまでのハードルはそこそこ高いのだが、それも当たり前になっている「観劇」の構造やルールを壊し、そこから新たなる「領域」を見出していくということだろうか。例えば23日11時30分に開催された篠田千明のガイドによる「忘れ物ビーチツアー」は、会場となったスパイラルホールを巡るツアーであった。普段は入ることのできない舞台裏に潜入し、そこで非常階段に展示されたままのアラーキーの写真を鑑賞したり、Aokidがワークショップで使うウレタンに霧吹きをかけたり、ダムタイプが上演した頃の話が参加者と共に交わされたりした。スパイラルホールにまつわる記憶や歴史が、観客の能動的な参加によって多面的に立ち上がったように思われる。

「忘れ物ビーチツアー」ツアーガイド:篠田千明 キュレーター:福留麻里
撮影:黑田菜月 Whenever Wherever Festival 2021 提供:Body Arts Laboratory

その後、筆者は23日の「〈らへん〉の地図」にほぼ全日参加したが、鑑賞できたのは「未来アナーキー」「見えないダンスの実況中継」「病める舞姫をテクストに、ヒジカタmeetsスパイラル」そしてラストの「ダサカッコワルイ・ダンス」であり、同時間に開催されるプログラムは見逃した。その中で印象に残ったのは、備わっていて気づいていない身体感覚の〈らへん〉を提示した敷地理と手塚夏子の作品である。

「病める舞姫をテクストに、ヒジカタ meets スパイラル」振付・出演:久保田舞(写真)、坂藤加菜、前後(神村恵+高嶋晋一) キュレーター:西村未奈
撮影:黑田菜月 Whenever Wherever Festival 2021 提供:Body Arts Laboratory

ホール内は、向かって右手の壁に大きなスクリーン、その周りを取り囲むように壁際に沿って客席が並んでいる。13時からのプログラム「未来アナーキー」にスペースノットブランクと共に参加した敷地理は、自身の身体を丹念に観察していくタイプの振付家だが、それが内的にならずに外へと拡張していく。3本の短編からなる『magical eyes』の最初の「blooming dots (solo research)」では、スマホのカメラ画面に敷地の左手が写りそれがスクリーンに投影されているが、その映像は、スマホのフォルダ内に収められた過去の自分や他者の手と、手の形がリンクする映像に置き換わる。スマホを通して自分の手を見る瞬間と、それが過去の映像になる瞬間とが交差され、「誰かの身体のイメージに自分の感覚の移植を試み *2」る。映像内の身体を真似し、その他者の感覚を自分に移すということならば、「模倣」として理解できるが、スマホの中のイメージ(虚像)に自分の感覚を移植するとはどういうことだろう。映像の中の手は、何かを握ったり、燃えているバラを動かしたりする。その映像や、それをスマホ越しに見ながら自分の手を動かしている敷地を通して、観客自身の感覚も揺さぶられていく。ここでは、身体を捉える内的な感覚と、視覚を通して認識される身体のイメージが、スマホの画面・手の動きを媒介として撹乱される。二つ目の「ハイリーチュウ」では、曲のリズムに合わせてステップを小さく踏んでいるが、プツリと曲が切れるタイミングで再生速度と動きが遅くなる。ここでの動きは、「座る」という日常的な動作にもかかわらず、その遅さによってどのような実行過程を辿っているのか、いつもは出てこない身振りの地が見えてくる。また、パフォーマンス中でこのスピードを裏切るのは、ガムを噛む時に落ちる涎と包紙である。虚構のスローモーションを浮かび上がらせる身体と、実際の時間の流れが交差する瞬間にハッとさせられた。

「未来アナーキー」振付・出演:敷地理 キュレーター:山崎広太 
撮影:黑田菜月 Whenever Wherever Festival 2021 提供:Body Arts Laboratory

手塚夏子の「見えないダンスの実況中継」は、目の前にない体を想像すること、それだけで立ち上がるダンスを、文字通り実践してみせた。ホール内は暗く、スクリーンの前にスポットが当たる。聞こえてくるのは、手塚の声である。観客は、スポットの中に不在のダンサーの姿を想像し、手塚の言葉に合わせてイメージを広げていく。ここには二通りの鑑賞のモードがあったように思われる。一つは、目を開けて、スポットの中に踊るダンサーの姿=他者を想像しようとするもので、言葉から得られたイメージを外側に構築していくプロセスである。もう一つは、目を閉じて、むしろ自分の内的な感覚を動員し、自らが踊り手であるように鑑賞すること。ここで語られた言葉は、体の中を水が流れていくイメージや、その水が足の下から地面へと浸透しさらに地球のマントルを通過して反対側まで到達するようなイメージであり、自分の身体の内側、自己を受容する感覚を刺激する。これら二重のモードが自分の目の開閉と共に行き来し、ダンサーが不在であるにもかかわらず非常に豊かなダンス空間が広がった。

「over boundaries〈ダンス篇〉」出演:手塚夏子、梅田宏明、中村優希 キュレーター:西村未奈
撮影:黑田菜月 Whenever Wherever Festival 2021 提供:Body Arts Laboratory
*本プログラムは「見えないダンスの実況中継」(アーティスト:手塚夏子)に連続した形で行われた。

身体の中の〈らへん〉もさることながら、フェスティバル全体も、掴みきれないある種の雑多さが際立っていたように思われる。そしてそれこそが、「都市的」なあり方とも言えるだろう。さらにプログラムのどれもが、ここで収束せずに今後も発展していく可能性を秘めていた。つまり、固定された(舞台芸術ではそもそも不可能だが)完成品としての作品を提示するのではなく、ここから流動的に変化し発展しあるいは後退し、別の何かと融合し突然変異を起こすような種々の実践の、今のあり方を炙り出すような試みであった。

*1 本公演チラシより
*2 当日配布のプログラムより

INFORMATION

Whenever Wherever Festival 2021「Mapping Aroundness──〈らへん〉の地図」

2021.12.23 Thu−12.26 Sun
会場:スパイラルホール+その周辺、7days 巣鴨店、オンライン 他
キュレーター:⻄村未奈、Aokid、福留麻里、村社祐太朗、七里圭、岩中可南子、沢辺啓太朗、いんまきまさこ、山崎広太、木内俊克・山川陸(会場構成)
主催:一般社団法人Body Arts Laboratory 

WRITER PROFILE

アバター画像
宮川麻理子 Mariko Miyagawa

ダンス研究者。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論)博士課程単位取得満期退学。博士(学術)。現在、立教大学現代心理学部映像身体学科助教(任期付)、早稲田大学演劇博物館招聘研究員。大野一雄を中心に、舞踏とコンテンポラリーダンスを研究。共著にThe Routledge Companion to Butoh Performance (2019)。研究活動のかたわら、劇評を『シアターアーツ』『ダンスワーク』『artissue』等に寄稿。また、ドラマトゥルクおよび俳優として、鮭スペアレほか演劇やダンスの公演にかかわる。

関連タグ

ページトップへ