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『世界の涯ての鼓動』
ヴィム・ヴェンダース監督

Written by 藤原えりみ|2019.8.15

©2017 BACKUP STUDIO NEUE ROAD MOVIES MORENA FILMS SUBMERGENCE AIE

広大な海が遠く隔てられた恋人たちを結ぶ。
深海の闇からきらめく波間へと至る試練の物語。

直線距離にして約8600km離れたノルウェー海のヤンマイエン島と南ソマリアのキスマヨ。海洋生物数学者のダニーとMI6の諜報部員ジェームズは互いに思いを募らせつつ、生命の起源探求と爆弾テロ阻止という使命遂行のために、北と南の「世界の涯(は)て」で極限状態に追い込まれていく。同じ時間を生きる彼らの鼓動が距離を超えて響き合うような日本語タイトルもなかなか秀逸なのだが、潜水や水没を意味する原題『Submergence』は2人を隔てる距離を緩やかにつなぐ海の存在を思わせる。深海のシミュレーション場面から始まり陽光にきらめく海面の場面で終わる映画の構成からしても、海がこの物語を支える重要な要素であることは確かだろう。

本来なら交差するはずのない異なる世界に生きる2人が出会うのも、ノルマンディーの海辺のホテルだ。切り立った断崖の続く荒涼とした海岸には、第2次世界大戦中にドイツ軍が築いた巨大な掩体壕の残骸が波に洗われている。それは、Dデイの約2年前に試みられたドイツ軍占領地に対する無謀な上陸作戦の証。失われた連合軍兵士の数は2000人とも3000人とも伝えられている。「これを見に来たんだ」と語るジェームズは戦争や自爆テロに対する関心をちらつかせながらも、ナイロビに住む水道技師という偽りの身分のままダニーとの別れの日を迎える。そしてソマリアでアルカイダに監禁され、ダニーとの音信を絶たれてしまう。

映画の冒頭、タイトル場面にドイツ・ロマン主義の画家カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの《海辺の僧侶》の部分が映し出される。「んん? 何故《海辺の僧侶》?」と戸惑ううちに、場面はベルリンの旧国立美術館の展示室へ。《海辺の僧侶》の前のベンチで2人の上司とイヤホンガイドを装ったトランシーバーで情報交換をするジェームズ。そして移動しながら会話を続け、足首から下を描いた奇妙な絵の前で立ち止まる。作者はドイツ・リアリズム絵画を代表する画家アドルフ・フォン・メンツェル。自らの足や手のみに焦点を当てて克明に描写した風変わりな自画像でも知られている。これも彼自身の足だ。

©2017 BACKUP STUDIO NEUE ROAD MOVIES MORENA FILMS SUBMERGENCE AIE

ダニーとジェームズの身に降りかかる事態を予告するような2点の絵画。嵐が近づく暗い海辺に佇む僧侶の姿には、人知を超える自然と向き合う人間の非力さ、矮小さが滲み出す。そしてメンツェルの足は、引きつったように持ち上がった親指と赤く腫れ上がった指、血管が浮き出た足の甲が肉体的な苦痛を連想させる。熱水噴出孔の調査のために深部調査船に搭乗するダニーはジェームズとの音信不通状態に孤独を募らせ、潜行に伴う命の危険への恐れが不安に拍車を掛ける。心に懊悩を抱えたまま深海艇に乗り込むダニー。

一方のジェームズは、監禁と暴力による肉体的・精神的苦痛に耐え続けなければならない。ひたすらダニーを思いながら……。ヴェンダースはテロリストやソマリアの人々の姿を細やかな眼差しで描き出す。監禁中のジェームズが壁の穴から延ばした掌にピーナツを置く少年、ジェームズに心を開いて語りかける医師、そっとペットボトルの水を渡すアルカイダの若者、死を覚悟し、逃亡を図るジェームズに向けた銃を下ろすテロリスト。

©2017 BACKUP STUDIO NEUE ROAD MOVIES MORENA FILMS SUBMERGENCE AIE

2人の出会いにまつわる時系列の交錯と約8600kmの距離を飛び越える場面転換の連続が緊張感を高めていく。挿入されるフェロー諸島の奇岩や壮大な滝、ソマリアの乾ききった砂漠の光景にも目を奪われるだろう。恋、探求、闘い等々の人間の営みを包み込む雄大な大地と海、そして空。ジェームズが口にするジョン・ダンの説教の一部も示唆に富む。

ラストの光ゆらめく海面を漂うジェームズの姿をどう解釈するかは観客に委ねられている。何が何でも「ハッピーエンド」的なハリウッド映画にはない、この陰影に富んだ奥ゆかしさがしみじみと心に沁みる。

INFORMATION

『世界の涯ての鼓動』

監督:ヴィム・ヴェンダース
8月2日(金)、TOHOシネマズ シャンテ他全国順次公開

WRITER PROFILE

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藤原えりみ Erimi Fujihara

美術ジャーナリスト。東京芸術大学大学院美術研究科修了(専攻/美学)。女子美術大学・東京藝術大学・國學院大学非常勤講師。著書『西洋絵画のひみつ』(朝日出版社)。共著に『西洋美術館』『週刊美術館』(小学館)、『ヌードの美術史』(美術出版社)、『現代アートがわかる本』(洋泉社)など。訳書に、C・グルー『都市空間の芸術』(鹿島出版会)、M・ケンプ『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(大月書店)、C・フリーランド『でも、これがアートなの?』(ブリュッケ)など。

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